交流16 カルト化してくる教義/自分の頭で物事を考えることへの忌避感

 時期としては2019年5月以降のことです。摂理のバイブルスタディが進んでくると、信者の人たちはみな「とても重要なことがこの先明らかになっていくんだ。分かったら教えてね」みたいなことを言ってくるようになりました。なんでしょうかそれはと尋ねてみると皆そろって「それは、君自身が気づかなければならないから」と言って教えてくれませんでした。まあ当然”牧師先生”が成約時代のキリストであるということを指していると思われましたが、気づかないふりをして不思議がっていたと思います。

 後半の御言葉は、前半のものと比べると、実につまらないものが多くありました。前半はまだ、聖書の一節からまっとうな教訓を引き出していく、普通のお話にちかいものだったのですが、後半は「正しく御言葉を理解しないと地獄に行く」「自分で考えてはならず、周りの人に従わなければならない」「成約の御言葉を信じて行えば、イエス様もたどり着けなかった”黄金天国”に行くことができる」といったカルトじみたものが増えていきました。これでは学んでも少しの教養にすらなりません。そして何よりも、”牧師先生”がキリストだよね、というような誘導が露骨になってきました。

 このつまらなさに反比例して、信者の人たちは、後半の御言葉の重要さをよく説くようになりました。「後半の御言葉は特に重要だから、ちゃんとお祈りして、真剣に聞いてね」とよく言われました。とりあえず態度は純真真面目にしてやり過ごしていましたが、内心では、このようなあからさまな状況をみてニヤニヤしていたと思います。

 とは言っても、流石に適当に流せなさそうな場面に出くわすこともありました。教師役が熊沢(仮名)だった時の話です。再臨のキリストについての質問を、適当な屁理屈をこねたり気づかないようなふりをしたりして、全部しらを切り通していたら、流石にイライラした態度を彼は隠せなくなってきていました。基本的に摂理の信者は温厚ではあるので、なかなか意外に思っていました。そうしてかなり露骨な誘導尋問をしてきました。

「いいかい?今の時代は、僕が君に教えているように、聖書の正しい読み方が伝わっているんだ。そのような時代が成約時代だということはもう知ってるよね。その前の時代(新約時代)と成約時代の境目にはキリストが降臨するんだ。さあ!今はもう成約時代のキリストはいるの?いないの?どっちなの?」

 みたいな感じだったかと思います。流石にここまで来ると言い逃れの余地がなかったので、仕方なく「まあ、それだというなら、いるんじゃないですか。」と少し苦しい答えを返しました。ここまで出てくるのは意外でしたが、流石に認めてやらざるを得なくなってしまったことについては、少しだけ敗北感を覚えていました。

 

 少し話が変わりますが、よく「聖書の話の中では何が好き?」と聞かれたり、また聞いたりするような機会がありました。皆いろいろな話を振ってきていました。僕は、どこの箇所かは忘れてしまったのですが、イエス様が説教をするシーンで「あなた方はどうして、物事の良し悪しを自分で判断しないのか」というところがあるのですが、これが特に気に入っていました。ただ、この話をしたときの摂理の信者たちの反応は悪かったです。感心すると言うよりはむしろ怪訝そうな、少し非難するような視線をむけていた記憶があります。

 自分で考えると言うより、自分たちよりも霊的に先輩である人たちに相談せよ、ということは摂理のバイブルスタディの一つ”無知の中の相克世界”というもので教え込まれます。ここでは、素晴らしい業績を上げたような人でも、御言葉に従わずに余計なことをしたことによって、滅んでしまった人が聖書の中に載っていたからこそ、自分だけで余計なことをしてはいけないという話がされます。恐らくは、摂理の人間のこのような態度はこれに起因するのかな?と推測されます。

 (続きます)

ーーーあとがきーーー

・摂理では、明文化または明言して「~してはならない」というようなことはあまりしませんでした。ですが、そういうの良くないよねといった態度を集団で取って、雰囲気によって圧力をかけ、人を統制しようととすることがかなり多くありました。これは摂理特有の戒律である飲酒・恋愛禁止についても同様なのです。してはいけないとは言われていませんが「そういうことは神様から見てよくないことだよね」というような態度をとる信者が集団で取り囲んできます。

 このやり方の卑怯なところは、飲酒・恋愛禁止でしょ?と明言して問いただされるようなときに、彼らが「そんなことは一言も言っていない」「摂理にそんな決まりはない。自由なところだ」と言い逃れることを許すところにあります。事実”一言も”彼らは言ってきたりはしないのです!

・”無知の中の相克世界”を教えてくれたのは春日(仮名)でした。「僕、これだけはおしえられるんだ!」といって張り切っておられたのですが、僕は当時大学と演劇の両方をこなした後に聞きに行っていたので、かなり眠そうにして聞いてしまいました。そのせいで、春日は言葉には出さないけど、少し苛ついていたように見えました。申し訳なさを感じはしませんでしたが…

・自分で考えて判断することは、この話によって忌避されますが、「神様に従う」ことはよいことだとされています。ですので、どうしても変だなと思うことを言う機会があったときは、「神様が教えてくださったんですけど」と前置きして、神の権威を借りて話をするようにしていました。そうすることで揉めることを回避しつつ、話を聞いてもらいやすくなったので、不思議だけどなかなか便利だなあと思ったりしました。