交流14 教義の精査のために違う教会に行った話。

 時期は2019年3月下旬のころです。自分の世話になっている連中が摂理という、教祖が信者に対する強姦罪で捕まっているような異端宗教であるということが分かりました。しかし、それを知りはしましたが、僕はまだ、彼らのマインドコントロールから完全に逃れることはできていませんでした。摂理は犯罪的な団体ではありましたが、彼らによって信仰を得たのもまた事実でした。当時の僕には、そのような信仰は捨てがたいものでした。そしてそれを与えた摂理には、何かしら得るものはまだあるのではないか?そのように考えていたかなと思います。

 僕には、交流13で述べたような習慣がありました。ですので、彼らの説く信仰が良いものに当たるのかどうか、徹底的に精査してみようと思いました。そのためには、摂理内部で説かれているものだけでなく、一般的な、伝統的なキリスト教における教義を調べてみる必要があると考えました。そのために、地元のキリスト教会に足を運び、教義の専門家である牧師(カトリックでは神父)に相談しようと思い立ちました。

 日曜日のこと、僕は近くのプロテスタント教会に足を運びました。そこではポルトガル語と日本語の礼拝を行っていました。当然と言えば当然ですが、ポルトガル語の方の礼拝の方が圧倒的に人が多かったです。日本語の方に行ってみると、中年~老年くらいの人がメインでしたが、家族と一緒に来たと見える方々も1組くらいおり、僕と同年代くらいの女の子が一人いました。

 礼拝では、聖書や賛美歌が載った本が貸し出され、それを見ながら賛美歌をいくつか歌い、聖書の一節を朗読したり、牧師からの有難いお話を聞く、などのことをしました。特にこの賛美歌は、摂理のものと全く違って、メロディーも歌詞も聴いてて非常に心地の良いものでした。これには非常に感動した記憶があります。(それだけ摂理の賛美歌に辟易していました。)

 そのお話についてメモを取っていましたので、紹介します。旧約聖書の列王記上(第一)の19章1節~8節を引きながら、「体と心の健康を願う神」というテーマで、担当の牧師さんが話をしていました。要約すれば、疲れ切ったエリヤに対して、神様がパン菓子と水を与えた話です。神様は、疲れ切った人が無理をするようなことを望まれはしない、むしろそういうときには栄養をとって休むことを望まれる、といった趣旨の話です。

 それから担当の牧師さんは、牧師という仕事について少し話してくれました。このような仕事をする人たちは皆真面目で、他人のために頑張りすぎてしまう傾向がとてもあるようです。そしてその激務のせいでうつ病になる人も多いのだそうです。事実、その牧師さんはうつ病になってしまい、しばらく仕事ができないような体になってしまったりもしたそうです。そんなことは神様は望まれませんよ、むしろ休むことこそ望まれいるんですよ。自らの経験を交えながら、聖書の一節から、そのような話をしてくれました。

 最初聴いたとき、あれ、摂理ではパンは御言葉を意味しているのであって、それ以外の解釈はだめだと教えられたのになあと思ってしまいましたが、別にパンをパンと解釈したって、心と体には気を遣うべし、という人にとってとても大事な、真理のようなものは十分導きだされているじゃないか、そんな風に思いました。

 一通りのプログラムが終わった後、日本人やブラジル人などが集まった昼食会が開かれることになっていました。それに参加して、いろいろな人と話したのち、牧師さんとその奥さんと僕の3人で、摂理の教義の精査をしてもらうことになりました。

 彼ら曰く、摂理の教義は全て、聞いたこともない話だし、そのような解釈は伝統的なキリスト教の立場からすると”異端”と呼んでも差し支えないくらい荒唐無稽なものであることを少し長い時間をかけて詳しく教えてもらいました。

 そうしていたらいい時間になったので、最後に3人でお祈りをして、別れることになりました。

 後日、元来は摂理の人たちからまた御言葉を聴きに行く予定があったのですが、僕が高熱を出してしまったので中止になりました。治るころには学校が始まってしまったこと、また、僕が当時演劇をやっていて、役者を複数のサークルで掛け持ちしていたことなどがあったため、暫く摂理の御言葉を聴く時間が作れなくなりました。そのために、摂理の活動から1か月ほどのあいだ離れることになりました。

(続きます)

ーーーあとがきーーー

・信仰に篤いお婆ちゃんと話す機会があったのですが、僕と話していたとき「君は危ない人だ」と言われることがありました。僕自身そう思っていたし今でも思うことであるので何も言い返す言葉もなかったです…

 そのおばあちゃんはとにかく信仰心の深い方で、自ら進んで何かを行うというよりは、その身のすべてを神にゆだねていると形容できるような、素朴で消極的な方でした。その姿は「成約の時代では、教えを信じるだけではだめで、実践をしなければならない」などといっていた摂理の人とは対照的でした。そもそもキリスト教徒の生き方とは、実践をすると言った攻撃的なものではなく、彼女のような、もっと消極的なものなのではないかと思わされました。

・昼食会のときに、日本語が少し話せるブラジル人とお話をする機会がありました。彼曰く、元々ブラジルに住んでいたが、そこは治安や社会情勢の不安などによって、かなり将来性が無いようなところだったそうです。それに加え、自分の宗派はブラジルでは少数派だった(ブラジルはカトリックが多数派です)こともあったため、自分の宗派の人間がより住みやすいところである日本に移住を決めたとのことです。このようにして、宗教によって進路を決める人もいることを知ったとき、宗教と社会の結びつきのようなものを感じずにはいられませんでした。

・世話になった牧師さんとその奥さんは、僕とあった日が日本の教会における最後の活動日だったそうです。曰く、4月から牧師としての修行をするために、キリスト教の本場であるアメリカに行くことになっていたそうです。なんだか運命的なものを感じました。

 

・参考:列王記19章1節~8節(口語訳)

19:1アハブはエリヤのしたすべての事、また彼がすべての預言者を刀で殺したことをイゼベルに告げたので、 19:2イゼベルは使者をエリヤにつかわして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。 19:3そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、 19:4自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。 19:5彼はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使が彼にさわり、「起きて食べなさい」と言ったので、 19:6起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。 19:7主の使は再びきて、彼にさわって言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。 19:8彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。