交流11 教祖特製賛美歌の異常な”ダサさ”と摂理の選民思想

 摂理の人間と関わるようになって、僕は摂理で教えられているものだけではなく、キリスト教をルーツとした文化そのものに興味を持ち始めるようになりました。そのため、一般に知られている賛美歌、エピソード、映画や音楽など、様々ものを調べ、それらを味わっていたりしていました。また調べた成果を、日ごろよく会う摂理の信者に話していたりもしていました。そんな頃のお話です。

 摂理の教義では、時代性というものを教えられます。イエス・キリストが来る前までの時代を”旧約時代”、イエス・キリストが来て、次のキリストが来るまでの時代を”新約時代”、そして次のキリスト(教祖チョンミョンソク)が来た後の時代を”成約時代”と呼びます。約束が成立したという意味をこめて”成約”という名前であるものと推測されます。この”時代性”というものを摂理ではとにかく重視されます。それは教祖チョンミョンソクの権威を示すものでもあり、また摂理の信者が特有に持つ”選民思想”を明確に根拠づける温床でもあったように考えられます。

 時期としては2019年の3月中旬ごろであったと思います。僕のお祈りが習慣化されたころ、バイブルスタディの前に賛美歌を歌うことを勧められました。そして、これから歌う賛美歌はあの”牧師先生”が作られたもので、成約の時代である現在に即して作られた、時代性をとらえた素晴らしいものであるなどと言われました。ふーんと思っていると、彼らから歌詞カードを渡され、スマホのスピーカーを用いて音楽を流し始め、一緒に歌うことを勧められました。

 そして、この”牧師先生”特製の賛美歌なのですが、これが尋常ならざるダサさだったのです。少なくとも僕の乏しい音楽感性では聴くのにさえ耐えられませんでした。ましてや歌うことなど、考えられるものではありませんでした。こんな粗大ごみのような歌よりも、一般に知られている賛美歌の方が、どれほど神聖で、どれほど歌ってて気持ちが良いか、彼らにはわからないのだろうかと感じてしまいました。

 しかし、彼らの方では、みんな揃ってこのこっぱずかしい教祖特製クソダサ賛美歌を絶賛していました。これ以外の賛美歌など考えられないといった風でした。ここで僕と彼らの間に明確な間隔があるのを自覚しました。彼らは一体何を有難がっているのだろう?

 このように内心では思っていたのですが、周りは信者に囲まれているし、頑なに拒んで不信に思われるのは、今はまだ早すぎるだろうと考え、仕方なくこの感性が死んでいるとしか思われない不協和音のごとき賛美歌?を覚え、歌うことにしました。

 しかし、信者に囲まれて、一応神聖さの意味を付与されてはいるこの歌を一緒に祈りの意味を込めてあげながら歌ってみると、不思議と一体感や高揚感を感じられるのです。曲は聞くのも歌うのも耐えられない、けれども仲間と歌っていると、これが何故か楽しく感じられるのです。曲は聞きたくもないけれど、彼らと歌う分であれば悪くはないな。そのように思いました。(後日、これらのような教祖特製賛美歌が聞けるURLを教えてもらいましたが…まあ一度も聴くことはありませんでした。当たり前ですね。)

 それでも音楽の不快さを拭い去ることはできませんでしたので、信者の連中に摂理式賛美歌の感想を求められても、明言することは避け、話をはぐらかすようにしていました。話をはぐらかして、それよりも世間一般にあるような、もっと普通の賛美歌の良さを僕は話していました。最初は彼らも、僕の話に合わせてくれていたのですが、次第に眉をひそめるようになりました。そうして、次のようなことを言われました。

「そんな歌は時代性を分かっていない。」

「今は成約時代なのだから、成約の御言葉を理解した歌を聴くべきだ。」

「そのような歌を聴いていると、時代の止まった人間になってしまうぞ。」

 そうして、摂理以外の文化で生まれた賛美歌を否定され、歌うな聴くなとまでは言わないものの、嫌悪感を明確にされ、歌ってはならないという雰囲気で僕を取り囲んできていました。

 しかし、このような言動や振る舞いに対し、僕は疑問に思いました。彼らは神様を信じています。そして、それを信じない人、または、キリスト教徒でも摂理式の教義で信じていない人を”時代性のわかっていない人”、”時代の止まった人”などといって彼らを否定し、差別したりしていました。それは違うだろうと当時でも、また今の僕も思いました。神様の偉大さを信じ、称えている人であるなら、他の宗派・宗教の人たちに対して、道は違えど同じ神様の偉大さを称える人が信仰の薄れた現代にも存在していることをまず喜ぶほうが自然であると思いました。

 センスのかけらもなく、それでいて盲目な信者だけが粋がって褒めているだけの、何の価値もない賛美歌を聞かされ、歌わされてから、このような疑念が僕の中で芽生え、大きく育っていきました。そしてそれは、僕が摂理と決裂する過程の最初の一歩だったように思うのです。

(続きます)

ーーーあとがきーーー

・摂理の教祖チョンミョンソクは、作曲以外にも、書道や絵をかいたりしているそうです。それらは信者の中では絶賛されているのですが、外からの評価を得ているということはないようです。自分の信者だけにそれらをみせて、称賛させるというのは、なかなか悪趣味な人だなあと感じます。

・彼らの言う”時代性が込められている”というものは、歌詞にあるのではないかと推測しています。なぜなら、歌わされた曲の歌詞には

「新歴史主を褒めたたえよ」「引き上げ」「黄金天国」「神様・主の歴史」

などといった、摂理特有の用語がちりばめられていたからです。

・このチョンミョンソク製賛美歌なのですが、曲名がコロコロ変わります。教団の名前もよく変わるので、彼らの持つ隠ぺい体質が音楽にもにじみ出ているのでしょうか。

・賛美歌なのですが、歌のジャンルというものが明確に決まっているわけではないので、ロック調のものから王道を行くしんみりとしたものまで様々なものがありました。そのどれもこれもがすべてダサかったのですが…

・彼らは時代性というものを重んじていました。そして、時代性をわかっていないひとを見下していました。その姿はまるでイエスキリストによって批判された、律法を一字一句形式的に守ることばかり気にして、そうしていない(できなかった)他の信者を見下していたパリサイ人のようです。彼らこそ”時代の止まった人たち”の名にふさわしいと思うのですが…