交流17 彼女の有無を聞かれる/摂理の学生信者の特徴/理想的な宗教
摂理の大きな特徴の一つに、恋愛の禁止があります。なぜというに、アダムとイブの堕落(進んだ時代の人間が、昔の時代に戻ってしまうこと、と摂理では言われます。)の原因は、彼らが霊的に未成熟なのにも関わらず、性行為を行ってしまったことであり、それに準ずるような関係を霊的に成長していないような状態で持つことは「神様は望んでおられない」とされているから、とバイブルスタディを通して教え込まれるからです。アダムとイブがセックスをしたということは、かの有名な知恵の実を食べるシーンが聖書の中にありますが、それは、そのことを指し示す比喩であると解き明かされることで示されます。(そして、それを最初に解き明かした”牧師先生”がいる、というわけです!)
恐らくですが、摂理では、ある程度マインドコントロールを施した信者に対して、事前に恋人の有無を聞いてくるものと思われます。なぜなら、先述のこともありますし、何よりも僕も聞かれたことがあるからです。このLGBTQの権利が叫ばれている時代に、明確に”彼女はいるの?”と聞いてくること自体、”時代性を間違えている”行為としか思われませんが、今回はそれに関するお話です。
2019年5月くらいのことです。いつものように摂理の信者どものマンションに行ってきたときのことです。そこには戸枝(仮名)がいました。恐らく僕の監視役(相談役)的ポジションにいると推定される彼です。彼と二人で、でかいカップケーキとお茶を飲むことになりました。
ケーキとお茶を頂きつつ、彼と会話をいくつか交わしていました。内容は「御言葉の調子はどう?」「神様いいよね」「牧師先生は素晴らしい」など、そのような類のことだったかと思います。
そうしているうちに、彼に「悩みとかない?」と聞かれました。適当に「女性関係で悩んでます」と言ったときのことです。その時彼は
「僕、彼女いたことないんだよね。」
と答えていたのを覚えています。彼は、そこらへんによくいそうな、ちょっと頭のよくなさそうな一般的大学生みたいな見かけをしていたので、この返答には少し驚いていたのを覚えています。当時の僕は、摂理が恋愛禁止だと言うことは調べ上げて知っていたので、彼は摂理にかなり純粋培養されているな、と感じました。
そうしているうちに、会話がとぎれとぎれになって、手持ち無沙汰な時間の間ができたりできなかったりする状態になりました。彼は僕を前にしてスマホをいじっていました。そこで、少し気になったので、僕は彼にこのような問いかけをしてみました。
「あの素晴らしい牧師先生いるじゃないですか。でも彼、警察に捕まっていたらしいですよね。なんでなんでしょうね。あんなに凄い人なのに。どうしてだと思います。?」
なるべく言葉を丸めながら、彼に牧師先生について聞いてみました。実際、摂理の信者は、このようなことを外側の人間に聞かれたら、どのように答えるのか、僕は興味がありました。
しかし、彼はうつむいて、黙ってスマホばっかりいじっていました。僕の言ったことなんか聞きたくもないし聞いてない、といったような態度を示しているかのようでした。僕より3~4は年上の癖に、なんともまあ失礼な男だなあ。と内心毒づきつつ、摂理の信者の傾向について考えていました。
どうも、彼らには自分たちに都合のいいことしか聞かないといったような、極めて幼稚すぎる態度がある。自分たちこそは唯一の真理を知っており、それを知らない俗世間や他の宗派の人間は時代が止まった人だと見下してばかりいる。そのように驕っているくせに、自分たちが崇め奉っている教祖チョンミョンソクが捕まったという、非常に重く、かつ信者なら真剣に考えなければならないような事態に直面しているのに、そんな大事なことから目をそらしているきらいがある。そのような、教祖の醜悪な側面には触れずに崇め奉ってばかりいる。嫌なものには、信徒として真剣に向かい合っていかないようなことにさえ、目を背ける。それは、自分たちを中心に世界が回っているんだと考えて駄々をこねている子供の姿そのもののようで、すなわち摂理の信者は皆そのような”ガキ臭さ”をどうも持っていると思わされました。そのような傾向は僕が関わってきたすべての学生摂理信者に見受けられました。しかし、戸枝はそのような摂理信者の特徴を最も強く持っている、そのように思えました。
このあたりから、僕は少し鋭めの話を振り続けてみましたが、彼は前と同じように、話しかける僕を前にして、うつむいてスマホをいじってばかりで、僕に返答するようなことは全くありませんでした。ここまで失礼な人間もいるんだなと思って、関わってきた摂理の信者の中でも最も馬鹿そうなこの男を、観察するように僕は見ていたかと思います。
結局、彼と僕との会話の中でまっとうに成立したものは、僕に彼女がいないということが分かったときのことだけでした。いるのかと聞かれて、僕がいないと答えたとき、彼は「えっ!いないの!!??」とうつむいて見ていたスマホから目を離して、喜び目を見開き、ちょっと前のめりになっていました。そして、さっきよりも少し早く指を動かして、スマホをまた動かし始めました。恐らく、信者のグループLINEかなんかに僕のことを報告しているんだなと思いつつ、会話の成立しない彼と彼のスマホに目を向けていたと思います。
そのような成立しない会話を続けたのち、帰ることになりました。僕は調布駅に向かおうとしましたが、どういうわけだか戸枝は駅に向かう僕についてきました。そして一緒に帰ることになりましたが、道中でどうも説教臭いことを僕に言ってきました。
「神様を信じてるとさ、お導きを感じることってあるよね。」
身の回りのすべての出来事を、神様にこじつけているんだから、それはそうです。今日、電車が全部特急だったということも神様のお導きです。
「だからさ、そういうことを感じるたびに思うんだよ。僕のような人間でさえ、神様はみていてくださるんだって。
だから神様のお望みにならないことは、してはいけないんだ。成約の御言葉を聴けるように導いてくださっているのだから、成約の御言葉を聴かなきゃいけないんだよ。そうでないと、他の人たちのように、時代が止まってしまって、救いのレベルが下がってしまう。そんなの神様はお望みにはならないことぐらいわかるでしょ?
僕はね、心配なんだよ。君は、せっかくこのような幸運、つまり神様のお導きに出会うことができたのに、他の御言葉に興味を持ってしまっている。そんなことはよくないよ。」
おそらくこのような、以前と変わらないことをオウム返ししてばかりいたかと思います。彼は鳥以下の脳しか持っていないのかと不思議に思いました。しかし、せっかく摂理の信者とシリアスな話題になっているものだから、僕はかねがね思っていた摂理に対する不満点を、適度に和らげながら言ってみました。
「時代性とかなんとか言ってますけど、そもそも現代は信仰が失われつつあるということはご存じでしょう。僕だって現に春日さんとかと電通大の生協前で会う前は、信仰なんて縁がなかったんですから。しかし、だからこそ、信仰者が少なくなりつつある現代で、道は違えども信仰というものに出会えた同志を、時代が止まっているなどといって差別し下に見ることは、果たして神様は望むことなのでしょうか。神様は確かに、成約の御言葉なるものを聞いてほしいとお望みかもしれませんが、それよりも、そのような同志が、このような現代社会でもいることを喜ぶのが、まず先決だと思いませんか。」
しかし、話す相手が悪かったとしか思えませんが、彼が僕の意見を聞いて、それを解釈して返答することはありませんでした。僕の喋りの音エネルギーが途絶えたかと思うと、即座に先述のようなことばかり繰り返して言ってくることしかしませんでした。
そのような、全く会話になっていない音のやり取りをしばらく調布駅前の広場で繰り広げていましたが、そろそろ帰りたくなったので、まだ言い足りなさそうな戸枝を放っておいて、エスカレーターの方に行きました。流石にちょっと言い過ぎたかな?とも思いましたが、まあ先方が出方を変えてきたら、その都度今のように言い返してやればいいかと思いつつ、帰ることにしました。
(続きます)
ーーーあとがきーーー
・摂理の信者は「人は良さそうだが幼いし甘い」という印象を、他者からから見ると抱くそうです。(参:https://station.okoshi-yasu.com/shiryo/seturitoha.pdf)実際その通りで、全く同じ価値観以外のものは受け付けないし考えようともしないという人間が非常に多く、他の人間を見下してばかりいました。(繰り返しになっていると思いますが…)
この戸枝(仮名)という男はその最たる例で、そのために僕は関わってきた摂理の信者の中でもこの男が一番嫌いでした。摂理の人間には、もうちょっと命(摂理の用語で、御言葉を聞きに来ている信者予備軍のこと)につける人の人選を考えてほしかったものです。
・「僕のような人間でさえも、神様は救ってくださる」のであれば、”時代性の違う”御言葉を聴く人も、神様は救ってくださるように思われるのですが…
摂理では、救われる人間の数は決まっており、人類全体は救えないらしいので、このような考え方に走るのも無理はないのかもしれません。
・学生はこんな人間ばかりでしたが、社会人の信者たちは、もうちょっと一般世間との交わり方を心得ている方が多かったです。
・この”一般社会とのかかわり方”というものは、僕の中では、宗教の良し悪しを考えるうえでの大きなテーマとなっていました。外野の人間を十分に考えられて、尊重できるような土壌を持つ宗教というものは、良い宗教と言えるのかなと、摂理の信者という悪い例を見て強く思うようになりました。
宗教と一般社会とのかかわり方とは、僕の感覚では、外国人と国際交流をするようなものが理想なのかなと感じていました。宗教的なルーツをもつということは、たとえ同じ国の人であったとしても、かなり違う文化規範で生きているということになります。摂理であれば、朝夕にお祈りという、一人で何かぶつぶついう独特な習慣を持っていることになります。外から見たらヘンテコです。でもこの社会集団ではそれが普通です。この外と内の普通のずれを、共感はできなくても理解はできるような状況を生もうとする活動は、国際交流と近いものがあるように感じられます。「僕の国ではこうなんだよ」「私の国では違うよ」と言って、一見常識外だけれども、理解をしようと努力するような、そのような感じです。
これは僕の他のあらゆる宗教に対して持ってほしい理想というだけであって、それこそ摂理の人間が言うような”唯一無二の絶対の真理”ではないです。異端密教を信じたいのであれば信じる自由が少なくとも真っ当な民主主義国家にはあります。ですが、それと知らせないで誘導しマインドコントロールし、自分たちにとって都合の良い人間に仕立て上げ食い物にしようとするような宗教は、僕個人の気持ちとしては、滅びればよいと思っています。
・カップケーキとお茶は美味しかったです。全部彼らのおごりでした(!)
交流16 カルト化してくる教義/自分の頭で物事を考えることへの忌避感
時期としては2019年5月以降のことです。摂理のバイブルスタディが進んでくると、信者の人たちはみな「とても重要なことがこの先明らかになっていくんだ。分かったら教えてね」みたいなことを言ってくるようになりました。なんでしょうかそれはと尋ねてみると皆そろって「それは、君自身が気づかなければならないから」と言って教えてくれませんでした。まあ当然”牧師先生”が成約時代のキリストであるということを指していると思われましたが、気づかないふりをして不思議がっていたと思います。
後半の御言葉は、前半のものと比べると、実につまらないものが多くありました。前半はまだ、聖書の一節からまっとうな教訓を引き出していく、普通のお話にちかいものだったのですが、後半は「正しく御言葉を理解しないと地獄に行く」「自分で考えてはならず、周りの人に従わなければならない」「成約の御言葉を信じて行えば、イエス様もたどり着けなかった”黄金天国”に行くことができる」といったカルトじみたものが増えていきました。これでは学んでも少しの教養にすらなりません。そして何よりも、”牧師先生”がキリストだよね、というような誘導が露骨になってきました。
このつまらなさに反比例して、信者の人たちは、後半の御言葉の重要さをよく説くようになりました。「後半の御言葉は特に重要だから、ちゃんとお祈りして、真剣に聞いてね」とよく言われました。とりあえず態度は純真真面目にしてやり過ごしていましたが、内心では、このようなあからさまな状況をみてニヤニヤしていたと思います。
とは言っても、流石に適当に流せなさそうな場面に出くわすこともありました。教師役が熊沢(仮名)だった時の話です。再臨のキリストについての質問を、適当な屁理屈をこねたり気づかないようなふりをしたりして、全部しらを切り通していたら、流石にイライラした態度を彼は隠せなくなってきていました。基本的に摂理の信者は温厚ではあるので、なかなか意外に思っていました。そうしてかなり露骨な誘導尋問をしてきました。
「いいかい?今の時代は、僕が君に教えているように、聖書の正しい読み方が伝わっているんだ。そのような時代が成約時代だということはもう知ってるよね。その前の時代(新約時代)と成約時代の境目にはキリストが降臨するんだ。さあ!今はもう成約時代のキリストはいるの?いないの?どっちなの?」
みたいな感じだったかと思います。流石にここまで来ると言い逃れの余地がなかったので、仕方なく「まあ、それだというなら、いるんじゃないですか。」と少し苦しい答えを返しました。ここまで出てくるのは意外でしたが、流石に認めてやらざるを得なくなってしまったことについては、少しだけ敗北感を覚えていました。
少し話が変わりますが、よく「聖書の話の中では何が好き?」と聞かれたり、また聞いたりするような機会がありました。皆いろいろな話を振ってきていました。僕は、どこの箇所かは忘れてしまったのですが、イエス様が説教をするシーンで「あなた方はどうして、物事の良し悪しを自分で判断しないのか」というところがあるのですが、これが特に気に入っていました。ただ、この話をしたときの摂理の信者たちの反応は悪かったです。感心すると言うよりはむしろ怪訝そうな、少し非難するような視線をむけていた記憶があります。
自分で考えると言うより、自分たちよりも霊的に先輩である人たちに相談せよ、ということは摂理のバイブルスタディの一つ”無知の中の相克世界”というもので教え込まれます。ここでは、素晴らしい業績を上げたような人でも、御言葉に従わずに余計なことをしたことによって、滅んでしまった人が聖書の中に載っていたからこそ、自分だけで余計なことをしてはいけないという話がされます。恐らくは、摂理の人間のこのような態度はこれに起因するのかな?と推測されます。
(続きます)
ーーーあとがきーーー
・摂理では、明文化または明言して「~してはならない」というようなことはあまりしませんでした。ですが、そういうの良くないよねといった態度を集団で取って、雰囲気によって圧力をかけ、人を統制しようととすることがかなり多くありました。これは摂理特有の戒律である飲酒・恋愛禁止についても同様なのです。してはいけないとは言われていませんが「そういうことは神様から見てよくないことだよね」というような態度をとる信者が集団で取り囲んできます。
このやり方の卑怯なところは、飲酒・恋愛禁止でしょ?と明言して問いただされるようなときに、彼らが「そんなことは一言も言っていない」「摂理にそんな決まりはない。自由なところだ」と言い逃れることを許すところにあります。事実”一言も”彼らは言ってきたりはしないのです!
・”無知の中の相克世界”を教えてくれたのは春日(仮名)でした。「僕、これだけはおしえられるんだ!」といって張り切っておられたのですが、僕は当時大学と演劇の両方をこなした後に聞きに行っていたので、かなり眠そうにして聞いてしまいました。そのせいで、春日は言葉には出さないけど、少し苛ついていたように見えました。申し訳なさを感じはしませんでしたが…
・自分で考えて判断することは、この話によって忌避されますが、「神様に従う」ことはよいことだとされています。ですので、どうしても変だなと思うことを言う機会があったときは、「神様が教えてくださったんですけど」と前置きして、神の権威を借りて話をするようにしていました。そうすることで揉めることを回避しつつ、話を聞いてもらいやすくなったので、不思議だけどなかなか便利だなあと思ったりしました。
交流15 摂理について調べ上げる毎日/反抗心を持って彼らと関わり始めた話。
時期は2019年4月のことです。大学が始まったりするなどして忙しくなったため、摂理からしばらく離れていました。ただ、僕は家から大学までの通学時間が往復3時間は超すほどあったので、その時間を利用して、摂理に関する資料や論文を探し出しては読むことをしていました。
特に一番役に立ったのは、摂理脱会者の会の人たちによって運営されているサイトS-tationです。
https://station.okoshi-yasu.com/ (リンク)
ここには教祖によるセクハラを受けた人たちの手記があります。内容についてはここでは伏せますが、いずれにしろそのようなことがあった模様です。また他にも、摂理について詳細に記述された資料がいくつもありました。
もう一つ、重要な情報ソースとして櫻井義秀氏(北海道大学教授)の論文がありました。これほど摂理についてまとめ上げられた資料は他にないように思われます。
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/33015/1/No1501.pdf (リンク、北海道大学学術成果コレクションHUSCAPより)
他にも、教授や脱会者の方にメールを送り、丁寧に対応して頂いたりしていました。上述の論文は、元はそのメールに添付されていたものです。
そのようにして、僕は摂理によるマインドコントロールから脱し、彼らに対して明確に敵意を抱き始めました。勧誘にさいして正体を明かさない、自分たちに都合の悪いことは隠蔽する、教祖の強姦事件に目を向けることなくむしろ崇め奉るようなことさえしている、そのような卑怯な、内輪で凝り固まったような集団が何も知らない大学生を狙って電通大の中に潜んでいる。そんな事実に対して怒りを覚えるようになっていきました。
そうしているうちに演劇の講演などが終わり、時間的余裕ができたころ、摂理の信者たちからまたバイブルスタディの誘いが来るようになりました。彼らに対しては、もうすでに明確な敵意を抱いていましたが、それと同時に、摂理のような矛盾した異端カルト宗教と関わることができているという現実に面白さを感じていたりもしました。このような連中と関われる機会はむしろ貴重であり、そのような集団は、僕にとってむしろ興味深いものでもありました。
調べている中で、バイブルスタディは30の講義で構成されており、話の中によく出てくる”牧師先生”こと教祖チョンミョンソクが成約時代の再臨のキリストであると自分から言い出すようになったら、摂理の”メンバー”として仲間入りを果たすという情報を見つけました。それなら、すべての講義を聞いても、僕がそのようにいいださなっかたら、彼らはどのような反応をするのだろう?という興味が湧いてきました。それを確認したり、彼らを観察したりするような目的で、半ば伊達と酔狂でかれらともう少し関わってみよう、そのように思っていました。
そうして、また摂理による御言葉を聴きにいく生活が始まりました。ただ、彼らに対する憎悪は心の中にかなりあったので、それが態度に出ていたのか、信者たちから信仰心を持っているのかどうか疑問に思われ、問われたりすることがありました。僕はそのたびに
「いや、神様をちゃんと信じてますよ。事実僕はいつも聖書を持ち歩いていますし、読んでいますよ。」
などといって、彼らを言い負かしていました。それは事実でしたし、そのために聖書を見せびらかしていたりもしました。
また、摂理に関する資料を印刷して、彼らと関わるときは常に持ち歩いていました。これは、何かのはずみで僕の摂理に対する反感がばれたときに、彼らに叩きつけようと思って用意したものでした。これは後日、役に立つ機会がありました。
(続きます)
ーーーあとがきーーー
・神様を信じていたことは本当です(!)。
・忙しさが減ってきたゴールデンウイーク後半辺りに、彼らと出かけることがありました。どうも完全に信者だろうと思われる人たち5~6人で新宿で遊ぼう!みたいな感じです。摂理では、それなりに信者になりそうな人には、このように接待をしてくれるようなところがあるようです。(僕は集団行動が苦手なので、あまり楽しくはなかったのですが…)集団行動を面白いと感じられる人にとっては、摂理は魅力的なところなのではないかと思われます。
・彼らに対して、彼らにとって都合の悪いようなことを言うときは、「神様が言ってたんだけど」と、神様の権威をもちだしつつ言うと言い返されることはありませんでした。逆に「自分の意志で」といったようなことを言うと、怒られました。「なんで神様のお導きに従わないの?」「それは肉体に惑わされている」といったような理由です。不思議な文化ですね。
交流14 教義の精査のために違う教会に行った話。
時期は2019年3月下旬のころです。自分の世話になっている連中が摂理という、教祖が信者に対する強姦罪で捕まっているような異端宗教であるということが分かりました。しかし、それを知りはしましたが、僕はまだ、彼らのマインドコントロールから完全に逃れることはできていませんでした。摂理は犯罪的な団体ではありましたが、彼らによって信仰を得たのもまた事実でした。当時の僕には、そのような信仰は捨てがたいものでした。そしてそれを与えた摂理には、何かしら得るものはまだあるのではないか?そのように考えていたかなと思います。
僕には、交流13で述べたような習慣がありました。ですので、彼らの説く信仰が良いものに当たるのかどうか、徹底的に精査してみようと思いました。そのためには、摂理内部で説かれているものだけでなく、一般的な、伝統的なキリスト教における教義を調べてみる必要があると考えました。そのために、地元のキリスト教会に足を運び、教義の専門家である牧師(カトリックでは神父)に相談しようと思い立ちました。
日曜日のこと、僕は近くのプロテスタント教会に足を運びました。そこではポルトガル語と日本語の礼拝を行っていました。当然と言えば当然ですが、ポルトガル語の方の礼拝の方が圧倒的に人が多かったです。日本語の方に行ってみると、中年~老年くらいの人がメインでしたが、家族と一緒に来たと見える方々も1組くらいおり、僕と同年代くらいの女の子が一人いました。
礼拝では、聖書や賛美歌が載った本が貸し出され、それを見ながら賛美歌をいくつか歌い、聖書の一節を朗読したり、牧師からの有難いお話を聞く、などのことをしました。特にこの賛美歌は、摂理のものと全く違って、メロディーも歌詞も聴いてて非常に心地の良いものでした。これには非常に感動した記憶があります。(それだけ摂理の賛美歌に辟易していました。)
そのお話についてメモを取っていましたので、紹介します。旧約聖書の列王記上(第一)の19章1節~8節を引きながら、「体と心の健康を願う神」というテーマで、担当の牧師さんが話をしていました。要約すれば、疲れ切ったエリヤに対して、神様がパン菓子と水を与えた話です。神様は、疲れ切った人が無理をするようなことを望まれはしない、むしろそういうときには栄養をとって休むことを望まれる、といった趣旨の話です。
それから担当の牧師さんは、牧師という仕事について少し話してくれました。このような仕事をする人たちは皆真面目で、他人のために頑張りすぎてしまう傾向がとてもあるようです。そしてその激務のせいでうつ病になる人も多いのだそうです。事実、その牧師さんはうつ病になってしまい、しばらく仕事ができないような体になってしまったりもしたそうです。そんなことは神様は望まれませんよ、むしろ休むことこそ望まれいるんですよ。自らの経験を交えながら、聖書の一節から、そのような話をしてくれました。
最初聴いたとき、あれ、摂理ではパンは御言葉を意味しているのであって、それ以外の解釈はだめだと教えられたのになあと思ってしまいましたが、別にパンをパンと解釈したって、心と体には気を遣うべし、という人にとってとても大事な、真理のようなものは十分導きだされているじゃないか、そんな風に思いました。
一通りのプログラムが終わった後、日本人やブラジル人などが集まった昼食会が開かれることになっていました。それに参加して、いろいろな人と話したのち、牧師さんとその奥さんと僕の3人で、摂理の教義の精査をしてもらうことになりました。
彼ら曰く、摂理の教義は全て、聞いたこともない話だし、そのような解釈は伝統的なキリスト教の立場からすると”異端”と呼んでも差し支えないくらい荒唐無稽なものであることを少し長い時間をかけて詳しく教えてもらいました。
そうしていたらいい時間になったので、最後に3人でお祈りをして、別れることになりました。
後日、元来は摂理の人たちからまた御言葉を聴きに行く予定があったのですが、僕が高熱を出してしまったので中止になりました。治るころには学校が始まってしまったこと、また、僕が当時演劇をやっていて、役者を複数のサークルで掛け持ちしていたことなどがあったため、暫く摂理の御言葉を聴く時間が作れなくなりました。そのために、摂理の活動から1か月ほどのあいだ離れることになりました。
(続きます)
ーーーあとがきーーー
・信仰に篤いお婆ちゃんと話す機会があったのですが、僕と話していたとき「君は危ない人だ」と言われることがありました。僕自身そう思っていたし今でも思うことであるので何も言い返す言葉もなかったです…
そのおばあちゃんはとにかく信仰心の深い方で、自ら進んで何かを行うというよりは、その身のすべてを神にゆだねていると形容できるような、素朴で消極的な方でした。その姿は「成約の時代では、教えを信じるだけではだめで、実践をしなければならない」などといっていた摂理の人とは対照的でした。そもそもキリスト教徒の生き方とは、実践をすると言った攻撃的なものではなく、彼女のような、もっと消極的なものなのではないかと思わされました。
・昼食会のときに、日本語が少し話せるブラジル人とお話をする機会がありました。彼曰く、元々ブラジルに住んでいたが、そこは治安や社会情勢の不安などによって、かなり将来性が無いようなところだったそうです。それに加え、自分の宗派はブラジルでは少数派だった(ブラジルはカトリックが多数派です)こともあったため、自分の宗派の人間がより住みやすいところである日本に移住を決めたとのことです。このようにして、宗教によって進路を決める人もいることを知ったとき、宗教と社会の結びつきのようなものを感じずにはいられませんでした。
・世話になった牧師さんとその奥さんは、僕とあった日が日本の教会における最後の活動日だったそうです。曰く、4月から牧師としての修行をするために、キリスト教の本場であるアメリカに行くことになっていたそうです。なんだか運命的なものを感じました。
・参考:列王記19章1節~8節(口語訳)
19:1アハブはエリヤのしたすべての事、また彼がすべての預言者を刀で殺したことをイゼベルに告げたので、 19:2イゼベルは使者をエリヤにつかわして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。 19:3そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、 19:4自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。 19:5彼はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使が彼にさわり、「起きて食べなさい」と言ったので、 19:6起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。 19:7主の使は再びきて、彼にさわって言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。 19:8彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。
交流13 ”摂理”と教祖チョンミョンソクの名を知った話。
僕はTwitter上でもこのブログ上でも、またリアルでの生活上(!)でも、”摂理”や教祖の名前であるチョンミョンソクの固有名詞をよく使っています。しかし、摂理の信者たちは最初の勧誘から、バイブルスタディの間でさえも、これらのような教団名や教祖の名前を教えてくれることはありませんでした。調べたところによれば、バイブルスタディを受けている中で良く出てくる”牧師先生”が、実は成約の時代に生まれた再臨のキリストであると”自分から言い出す”ほどに洗脳・教化が進んだところで初めて教えられるようです。僕はそのルートを辿って知ったわけではありませんでした。今回はその辺に関するお話です。
まだ摂理の教えに対してそこまで疑念を持っていなかったころ(2019年3月中旬ごろ)のことです。摂理の信者たちはことあるごとに”牧師先生”の話をしていました。当時は僕は彼らの話を信じていたので、胡散臭いななどとは思いませんでした。(!)しかし、聖書の勉強と言っていたはずなのに、聖書由来ではない話、すなわち”牧師先生”の話を根拠不明のまま講義内で挿入されることについては少し疑問を持っていました。ですが、本格的な疑念を生じるところまでは至っていなかったかと思います。
彼らの言うところによると、その”牧師先生”とやらは、様々な伝説を持っているようです。曰く、聖書を2000回読んだとか、ベトナム戦争に従軍したが聖書の教えを守るために人を一人も殺さなかったとか、そんな話です。まっさらな頭で聞いてみればなんかすごい話です。そんなすごい人なら、調べてみたら何か情報が出てくるだろう。出発点にあったのは、かの”牧師先生”に対する、単なる知的好奇心であったと思います。そんなことを考えて、彼らの話の節々から聞いたフレーズ(ベトナム戦争、聖書2000回、牧師)などを検索エンジンに入れて調べてみたりしました。そうしたら、ある一人の男の人の特設サイトにであったのです。それは次のURLに示すものです。
このサイト上に記載されていた話は、彼らの話に出てきた伝説と殆ど一致する。どうやらこの人があの”牧師先生”らしい。そして、このサイトによれば、その先生の名前は鄭明晰、チョンミョンソクというらしい。なるほどなるほど。この人はどんな人なんだろうな。そう思って、この名前を同様に検索エンジンに入力してみたときのことです。そうして、彼は”摂理”という教団の教祖であり、信者の女性に対する強姦罪で国外逃亡したが、逃亡先の中国で捕まり、実刑判決を受けたことを知ったのです。
なんという人間の屑でしょうか。しかし、最初、この情報を見たとき、僕は信じられなかったのを覚えています。あの牧師先生がそんなことをするはずはない。そのような言葉が頭の中で強く反響していました。(今でさえ散々にこの教祖・教団に対して文句を言っていますが、そんな僕でさえも、当時は本当に信じられなかったのです。カルト宗教のマインドコントロールというものは、かくも恐ろしいものなのです。)
しかし、だからといって、このような、自分に対して都合の悪い情報(あの素晴らしい話を最初に伝えてくださった牧師先生が信者に暴行を働き、逮捕されているということ!)に対して、目を背けるようなことはしませんでした。それは、理性の働きでも、また感情の働きによってそのようにしたわけではなかったと思います。それら二つのうち少なくとも一方に従っていれば、そのような情報は真理でない、真実を説くものは迫害される、イエス様もそうだったじゃないか、そのように考えてファクトチェックを怠り、立派なカルト宗教の狂信者になっていたことでしょう。では何によって、僕はこのような思考の束縛から逃れえたのか。それは電通大で訓練された、主張には明確な根拠をつけること、情報のソースが信頼に足りるかどうか検証をすること、そのようなアカデミズム・情報リテラシーの”習慣”によるものであると思っています。チョンミョンソクが本当に”善い人”であるなら、それは明確に根拠づけられてしかるべきである。その根拠というものを、電通大でのカリキュラムによって身につけられた”習慣”によって調べようとしたからこそ、頭ごなしに否定をしようとしなかったのだと感じています。
そうしているうちに、またも衝撃的な資料が出てきました。
http://religion.sakura.ne.jp/religion/ms/00aim_of_BS.pdf
(川島堅二先生のHPより引用)
これはバイブルスタディの目的について述べられた資料です。曰く、その究極目的は”チョンミョンソクは再臨の救い主(キリスト)であるという結論を導き出すことである。”とのことであり、またその次には、バイブルスタディの内容、結論、そして裏の目的が簡潔に述べられていました。これを見たとき「確かに、完璧にこれに沿ったものを教えられていた、そして、それらを合わせて考えると、チョンミョンソクがキリストであると導き出すことができる。」と簡単に考えることができました。
この資料を読んでから、彼らの御言葉を聴きに行ってみると、実際その資料通りに話が展開されていたのでさらにびっくりしました。そうして、彼らは摂理というキリスト教系異端カルト教団組織の集団なのだなということを確信しました。
(続きます)
ーーーあとがきーーー
・電通大では、情報の出どころを吟味するリテラシーに関する訓練が良く行われていると思います。それらは講義のみならず、たくさん課されるレポートや課題などを通して習慣づけられていくものであると思います。課題にはいつも追われてひどい目に遭ってきましたが、まさかそれらによって、カルト宗教のマインドコントロールから逃れられるきっかけを掴むことになるとは思っていませんでした。(出来はともかく)真面目にやってきて良かったなと今になって思います。
・このことをきっかけに、少しずつマインドコントロールから抜け出しながら、女性に対する性的暴行を働いたチョンミョンソクに対して、明確な憎悪と殺意を抱き始めていったように思います。昔に、似たような事件が僕の身近に起きた経験があったのですが、それがかの強姦魔に対する敵意を増長させ、そしてそれを黙認する信者の連中に対しても、同様な感覚を抱き始めていたように思います。そのような反感は、僕と摂理を決別へと導く大きな要因の一つになったとも思います。
交流12 僕につけられた監視役(相談役)/ボランティア活動
時期は3月中旬ごろで、具体的な日にちまでは覚えていないのですが、いつものように御言葉を聞きに行こうとして彼らのマンションに行ったときのことです。そこで初めて会う信者の人がいました。名前は戸枝(仮名)といい、私立大学の文系学部に通っているとのことでした。見た目はキツネみたいな細い目をしていて、暗めの色のリネンシャツに身を包んだ、いかにも頭がよくはなさそうな大学生のイメージを非常に反映した人物のように感じられました。
教師役の人が来るまでの間、彼と適当に会話していました。彼に限らずなのですが、「何か悩んでいることはない?」「御言葉が悟れないということはない?」などとよく聞かれていましたが、戸枝は他の信者よりもそれらの事柄をよく聞いてくる傾向があるように思えました。
少し余談ですが、教師役の人には特に
「御言葉を聞いていて、何か疑問に思ったことはない?君は毎日御言葉を聴きに来ているから、きっと興味がないはずはないんだろうけど、だからこそ”何か変だなあ”とか考えたりしない?」
とよく聞かれていたのですが、そう言うときには僕はよく
「何かが良いか悪いか、ということは、その”何か”についてよく知らないと正しい判断を下すことはできないじゃないですか。だからまずはそれについて深く知ることが第一だと思うんです。良し悪しを判断するのはそのあとからの方がより良いと思いませんか?」
と言ってその場をやり過ごしていました。事実僕はそう思っていました。
そうして御言葉を聴き終わった後、戸枝に教師役の人、春日(仮名)に他の信者たちと、そこそこの人数が彼らのマンションに集まっていました。いつものように御言葉の感想とかを含めた世間話をしていると、信者の一人が「カタンっていうボードゲームやらない?」と誘ってきました。ええやりましょうと僕が答えたので準備を始めました。しかし春日の方はパソコンで何やら作業をするらしく、やらないと言っていました。彼が何をしているのか気になったので、僕は彼に話しかけました。
パソコンの方をのぞき込んでみると、なにやらサークル宣伝用のスライドを作っているようでした。そういえば以前、彼はこんなことを言っていました。
「僕、ボランティアサークルを作りたいんだ。昔の電通大にはあったらしいんだけど、今はもうなくなってしまったんだ。普通その手のサークルってどこの大学にもあるんだけど、電通大にはない。これはちょっと良くないなと思って。似たような花壇整備をするサークルはあるらしいんだけど、それよりももっといろいろなボランティアに参加できるような、より自由度の高いサークルを作りたいんだ。」
そして実際に作ろうといろいろ活動しているらしく、今日はそのためのスライドづくりをするとのことでした。実際そのスライドの完成度は高く、その手の技術はあるんだなあこの人はと感じていました。
そうしてパソコンをいじる春日は置いといて、残りの信者でカタンをやっていました。これが結構盛り上がって、最終的には僕が勝ったので、信者の人に「今日のお祈りで、勝てたことを神様に感謝するといいよ」などと言われたのを覚えています。そうしていたらいい時間になっていて、お開きムードになっていました。戸枝以外の他の信者はやることがあるらしく、僕はその戸枝と一緒に帰ることになりました。
時間としては午後3時くらいです。遅めの昼食を食べようかなと思って、調布にあるラーメン屋さんにでも行こうと思いました。(そらまめというところです。美味しいですよね!)道中戸枝がついてきて、なにやら説教臭いことを始終僕に吐きつけてきました。曰く
「いいか、今は成約の御言葉が伝わっているように、成約時代と呼ばれる時代に生きているんだ。だからこそ、時代性に即した御言葉を聴かなきゃならないんだ。そうでなきゃ、バイブルスタディで学んだと思うけど、救いのレベルが決まってしまうんだよ。僕が君のことについてほんとに心配しているのは、君は成約の御言葉を聴いているのに、他の”時代の止まった人たち”の御言葉や賛美歌に興味をもっていることなんだよ。そんなものに関心を持ってしまうせいで、せっかく成約の御言葉を聴けるように、神様が導いてくださったと言うのに、もったいないじゃないか。そんなの、神様が望んでいることとは言えないよね。」
などといって、見かけは優しそうに装っていましたが、内容は僕が摂理以外のキリスト教文化などに興味を持っていることの非難でした。僕は、そんな時代性なんかで神様は人間を差別するような小さい存在ではないと思っていましたし、何よりも僕の興味に対してケチをつけてくる戸枝に反抗心を抱いていました。しかしまだ喧嘩をするのは早いだろうとも思っていましたし、僕は自己弁護のために、こういい返していたかと思いました。
「そりゃあ、成約時代の御言葉を聴くことは大事なことかもしれないですけど、そもそも僕は聖書を勉強して、また神様を信じるようになって日が浅いことぐらい先輩なら良く知っているじゃないですか。何も知らないところから、新しい世界を覗き始めたのですから、まずは神様について知ることが先決じゃないかと思うんですよ。そして神様は、皆さんの言う通りなら、旧約の時代があって、新約の時代があって、そして成約の時代があるんでしょう?そしてそのどれもは神様が関わっているわけですし、無視していいものではないでしょう。実際バイブルスタディは旧約・新約聖書を使っているわけですし。ですから、僕はそれらについて知ろうとしてるだけなんです。成約の御言葉というものも毎日聞きに行っていますし、決して疎かにしているわけではないですよ。」
このようなことなどを言って、彼らの顔を立ててやりつつ、自分の興味の弁護に専念していました。しかし、戸枝はそれを聞き入れたかというとそうではなく、どうやら僕の言ったことなどは耳から入って頭に届いていないらしく、先ほどの内容を繰り返していってくるだけでした。最近駅前で良く顕正会が勧誘活動やっていますし、彼らと話したことがある人ならわかると思うのですが、カルト宗教の信者は人の話を聞かずに自分の話しかしてきません。戸枝もまたそのような、自分の頭で物事を考えられず、神やキリストの名を騙るチョンミョンソクなどのアホに吹き込まれたかりそめの真理をオウム返しすることしかできないような、非常に頭の弱い子供のように僕には感じられました。
彼が僕を非難する、僕が言い返す。そのような無意味な言い合いをそらまめが面している路地の前で10~20分ほど延々とやっていました。流石に僕はおなかが減ってきたことに耐えられなくなったので、僕はご飯食べますけど、先輩もどうです?と彼を誘って、続きは店の中でやろうという意思を見せたら、彼は断って、自転車に乗って帰っていきました。なんだつれない奴だなあと思いながら、僕は油そばを食べるために店にはいりました。
(続きます)
ーーーあとがきーーー
・春日が作ってたボランティアサークルなのですが、Twitterやサイトなどを覗いてみると、どうやらまともにボランティアしているようです。(僕は参加したことないので、真偽は不明ですが…)ただ、僕が世話になった信者の姿は多数確認しました。サークルの活動内容がどうであれ、彼らと仲良くなろうものなら「聖書を勉強してみない?」と誘ってくることは明白なように思えます。ただ、彼らのやり口は巧妙を極めたものなので、そう無節操に勧誘してくるような無様な真似はしないと思いますが…
・顕正会は日蓮系の宗教で、毎年苛烈な勧誘で逮捕者がでている、摂理に比べて非常に分かりやすいカルト宗教です。(摂理は教祖以外逮捕されていない!!)信者の凝り固まりっぷりを即席で体験できるので、興味のある方は、最近は夕方から夜にかけての駅前に大体いるようなので、そこへ行って話しかけてみるといいでしょう。
・カタンは面白かったです。またやりたいですね。
・摂理の勧誘では、偶然性というものが強調されます。「僕たちとこうして出会えて、こうして成約の御言葉を君が聴けるようになったのは、神様によって導かれた、とっても幸運なことである」「この機会を逃したら、もっとも完成された救いを受けることはない」「救われる人間の数は決まっていて、人類全員が救われることはないけど、僕たちは救われる」などと言われます。そしてそれは、信者の脱落を防止し摂理の選民性を強化する役割も担っているものと思われます。いよいよカルト宗教らしくなってきましたね。
交流11 教祖特製賛美歌の異常な”ダサさ”と摂理の選民思想
摂理の人間と関わるようになって、僕は摂理で教えられているものだけではなく、キリスト教をルーツとした文化そのものに興味を持ち始めるようになりました。そのため、一般に知られている賛美歌、エピソード、映画や音楽など、様々ものを調べ、それらを味わっていたりしていました。また調べた成果を、日ごろよく会う摂理の信者に話していたりもしていました。そんな頃のお話です。
摂理の教義では、時代性というものを教えられます。イエス・キリストが来る前までの時代を”旧約時代”、イエス・キリストが来て、次のキリストが来るまでの時代を”新約時代”、そして次のキリスト(教祖チョンミョンソク)が来た後の時代を”成約時代”と呼びます。約束が成立したという意味をこめて”成約”という名前であるものと推測されます。この”時代性”というものを摂理ではとにかく重視されます。それは教祖チョンミョンソクの権威を示すものでもあり、また摂理の信者が特有に持つ”選民思想”を明確に根拠づける温床でもあったように考えられます。
時期としては2019年の3月中旬ごろであったと思います。僕のお祈りが習慣化されたころ、バイブルスタディの前に賛美歌を歌うことを勧められました。そして、これから歌う賛美歌はあの”牧師先生”が作られたもので、成約の時代である現在に即して作られた、時代性をとらえた素晴らしいものであるなどと言われました。ふーんと思っていると、彼らから歌詞カードを渡され、スマホのスピーカーを用いて音楽を流し始め、一緒に歌うことを勧められました。
そして、この”牧師先生”特製の賛美歌なのですが、これが尋常ならざるダサさだったのです。少なくとも僕の乏しい音楽感性では聴くのにさえ耐えられませんでした。ましてや歌うことなど、考えられるものではありませんでした。こんな粗大ごみのような歌よりも、一般に知られている賛美歌の方が、どれほど神聖で、どれほど歌ってて気持ちが良いか、彼らにはわからないのだろうかと感じてしまいました。
しかし、彼らの方では、みんな揃ってこのこっぱずかしい教祖特製クソダサ賛美歌を絶賛していました。これ以外の賛美歌など考えられないといった風でした。ここで僕と彼らの間に明確な間隔があるのを自覚しました。彼らは一体何を有難がっているのだろう?
このように内心では思っていたのですが、周りは信者に囲まれているし、頑なに拒んで不信に思われるのは、今はまだ早すぎるだろうと考え、仕方なくこの感性が死んでいるとしか思われない不協和音のごとき賛美歌?を覚え、歌うことにしました。
しかし、信者に囲まれて、一応神聖さの意味を付与されてはいるこの歌を一緒に祈りの意味を込めてあげながら歌ってみると、不思議と一体感や高揚感を感じられるのです。曲は聞くのも歌うのも耐えられない、けれども仲間と歌っていると、これが何故か楽しく感じられるのです。曲は聞きたくもないけれど、彼らと歌う分であれば悪くはないな。そのように思いました。(後日、これらのような教祖特製賛美歌が聞けるURLを教えてもらいましたが…まあ一度も聴くことはありませんでした。当たり前ですね。)
それでも音楽の不快さを拭い去ることはできませんでしたので、信者の連中に摂理式賛美歌の感想を求められても、明言することは避け、話をはぐらかすようにしていました。話をはぐらかして、それよりも世間一般にあるような、もっと普通の賛美歌の良さを僕は話していました。最初は彼らも、僕の話に合わせてくれていたのですが、次第に眉をひそめるようになりました。そうして、次のようなことを言われました。
「そんな歌は時代性を分かっていない。」
「今は成約時代なのだから、成約の御言葉を理解した歌を聴くべきだ。」
「そのような歌を聴いていると、時代の止まった人間になってしまうぞ。」
そうして、摂理以外の文化で生まれた賛美歌を否定され、歌うな聴くなとまでは言わないものの、嫌悪感を明確にされ、歌ってはならないという雰囲気で僕を取り囲んできていました。
しかし、このような言動や振る舞いに対し、僕は疑問に思いました。彼らは神様を信じています。そして、それを信じない人、または、キリスト教徒でも摂理式の教義で信じていない人を”時代性のわかっていない人”、”時代の止まった人”などといって彼らを否定し、差別したりしていました。それは違うだろうと当時でも、また今の僕も思いました。神様の偉大さを信じ、称えている人であるなら、他の宗派・宗教の人たちに対して、道は違えど同じ神様の偉大さを称える人が信仰の薄れた現代にも存在していることをまず喜ぶほうが自然であると思いました。
センスのかけらもなく、それでいて盲目な信者だけが粋がって褒めているだけの、何の価値もない賛美歌を聞かされ、歌わされてから、このような疑念が僕の中で芽生え、大きく育っていきました。そしてそれは、僕が摂理と決裂する過程の最初の一歩だったように思うのです。
(続きます)
ーーーあとがきーーー
・摂理の教祖チョンミョンソクは、作曲以外にも、書道や絵をかいたりしているそうです。それらは信者の中では絶賛されているのですが、外からの評価を得ているということはないようです。自分の信者だけにそれらをみせて、称賛させるというのは、なかなか悪趣味な人だなあと感じます。
・彼らの言う”時代性が込められている”というものは、歌詞にあるのではないかと推測しています。なぜなら、歌わされた曲の歌詞には
「新歴史主を褒めたたえよ」「引き上げ」「黄金天国」「神様・主の歴史」
などといった、摂理特有の用語がちりばめられていたからです。
・このチョンミョンソク製賛美歌なのですが、曲名がコロコロ変わります。教団の名前もよく変わるので、彼らの持つ隠ぺい体質が音楽にもにじみ出ているのでしょうか。
・賛美歌なのですが、歌のジャンルというものが明確に決まっているわけではないので、ロック調のものから王道を行くしんみりとしたものまで様々なものがありました。そのどれもこれもがすべてダサかったのですが…
・彼らは時代性というものを重んじていました。そして、時代性をわかっていないひとを見下していました。その姿はまるでイエスキリストによって批判された、律法を一字一句形式的に守ることばかり気にして、そうしていない(できなかった)他の信者を見下していたパリサイ人のようです。彼らこそ”時代の止まった人たち”の名にふさわしいと思うのですが…