交流17 彼女の有無を聞かれる/摂理の学生信者の特徴/理想的な宗教

 摂理の大きな特徴の一つに、恋愛の禁止があります。なぜというに、アダムとイブの堕落(進んだ時代の人間が、昔の時代に戻ってしまうこと、と摂理では言われます。)の原因は、彼らが霊的に未成熟なのにも関わらず、性行為を行ってしまったことであり、それに準ずるような関係を霊的に成長していないような状態で持つことは「神様は望んでおられない」とされているから、とバイブルスタディを通して教え込まれるからです。アダムとイブがセックスをしたということは、かの有名な知恵の実を食べるシーンが聖書の中にありますが、それは、そのことを指し示す比喩であると解き明かされることで示されます。(そして、それを最初に解き明かした”牧師先生”がいる、というわけです!)

 恐らくですが、摂理では、ある程度マインドコントロールを施した信者に対して、事前に恋人の有無を聞いてくるものと思われます。なぜなら、先述のこともありますし、何よりも僕も聞かれたことがあるからです。このLGBTQの権利が叫ばれている時代に、明確に”彼女はいるの?”と聞いてくること自体、”時代性を間違えている”行為としか思われませんが、今回はそれに関するお話です。

 2019年5月くらいのことです。いつものように摂理の信者どものマンションに行ってきたときのことです。そこには戸枝(仮名)がいました。恐らく僕の監視役(相談役)的ポジションにいると推定される彼です。彼と二人で、でかいカップケーキとお茶を飲むことになりました。

 ケーキとお茶を頂きつつ、彼と会話をいくつか交わしていました。内容は「御言葉の調子はどう?」「神様いいよね」「牧師先生は素晴らしい」など、そのような類のことだったかと思います。

 そうしているうちに、彼に「悩みとかない?」と聞かれました。適当に「女性関係で悩んでます」と言ったときのことです。その時彼は

「僕、彼女いたことないんだよね。」

 と答えていたのを覚えています。彼は、そこらへんによくいそうな、ちょっと頭のよくなさそうな一般的大学生みたいな見かけをしていたので、この返答には少し驚いていたのを覚えています。当時の僕は、摂理が恋愛禁止だと言うことは調べ上げて知っていたので、彼は摂理にかなり純粋培養されているな、と感じました。

 そうしているうちに、会話がとぎれとぎれになって、手持ち無沙汰な時間の間ができたりできなかったりする状態になりました。彼は僕を前にしてスマホをいじっていました。そこで、少し気になったので、僕は彼にこのような問いかけをしてみました。

「あの素晴らしい牧師先生いるじゃないですか。でも彼、警察に捕まっていたらしいですよね。なんでなんでしょうね。あんなに凄い人なのに。どうしてだと思います。?」

 なるべく言葉を丸めながら、彼に牧師先生について聞いてみました。実際、摂理の信者は、このようなことを外側の人間に聞かれたら、どのように答えるのか、僕は興味がありました。

 しかし、彼はうつむいて、黙ってスマホばっかりいじっていました。僕の言ったことなんか聞きたくもないし聞いてない、といったような態度を示しているかのようでした。僕より3~4は年上の癖に、なんともまあ失礼な男だなあ。と内心毒づきつつ、摂理の信者の傾向について考えていました。

 どうも、彼らには自分たちに都合のいいことしか聞かないといったような、極めて幼稚すぎる態度がある。自分たちこそは唯一の真理を知っており、それを知らない俗世間や他の宗派の人間は時代が止まった人だと見下してばかりいる。そのように驕っているくせに、自分たちが崇め奉っている教祖チョンミョンソクが捕まったという、非常に重く、かつ信者なら真剣に考えなければならないような事態に直面しているのに、そんな大事なことから目をそらしているきらいがある。そのような、教祖の醜悪な側面には触れずに崇め奉ってばかりいる。嫌なものには、信徒として真剣に向かい合っていかないようなことにさえ、目を背ける。それは、自分たちを中心に世界が回っているんだと考えて駄々をこねている子供の姿そのもののようで、すなわち摂理の信者は皆そのような”ガキ臭さ”をどうも持っていると思わされました。そのような傾向は僕が関わってきたすべての学生摂理信者に見受けられました。しかし、戸枝はそのような摂理信者の特徴を最も強く持っている、そのように思えました。 

 このあたりから、僕は少し鋭めの話を振り続けてみましたが、彼は前と同じように、話しかける僕を前にして、うつむいてスマホをいじってばかりで、僕に返答するようなことは全くありませんでした。ここまで失礼な人間もいるんだなと思って、関わってきた摂理の信者の中でも最も馬鹿そうなこの男を、観察するように僕は見ていたかと思います。

 結局、彼と僕との会話の中でまっとうに成立したものは、僕に彼女がいないということが分かったときのことだけでした。いるのかと聞かれて、僕がいないと答えたとき、彼は「えっ!いないの!!??」とうつむいて見ていたスマホから目を離して、喜び目を見開き、ちょっと前のめりになっていました。そして、さっきよりも少し早く指を動かして、スマホをまた動かし始めました。恐らく、信者のグループLINEかなんかに僕のことを報告しているんだなと思いつつ、会話の成立しない彼と彼のスマホに目を向けていたと思います。

 そのような成立しない会話を続けたのち、帰ることになりました。僕は調布駅に向かおうとしましたが、どういうわけだか戸枝は駅に向かう僕についてきました。そして一緒に帰ることになりましたが、道中でどうも説教臭いことを僕に言ってきました。

「神様を信じてるとさ、お導きを感じることってあるよね。」

 身の回りのすべての出来事を、神様にこじつけているんだから、それはそうです。今日、電車が全部特急だったということも神様のお導きです。

「だからさ、そういうことを感じるたびに思うんだよ。僕のような人間でさえ、神様はみていてくださるんだって。

 だから神様のお望みにならないことは、してはいけないんだ。成約の御言葉を聴けるように導いてくださっているのだから、成約の御言葉を聴かなきゃいけないんだよ。そうでないと、他の人たちのように、時代が止まってしまって、救いのレベルが下がってしまう。そんなの神様はお望みにはならないことぐらいわかるでしょ?

 僕はね、心配なんだよ。君は、せっかくこのような幸運、つまり神様のお導きに出会うことができたのに、他の御言葉に興味を持ってしまっている。そんなことはよくないよ。」

 おそらくこのような、以前と変わらないことをオウム返ししてばかりいたかと思います。彼は鳥以下の脳しか持っていないのかと不思議に思いました。しかし、せっかく摂理の信者とシリアスな話題になっているものだから、僕はかねがね思っていた摂理に対する不満点を、適度に和らげながら言ってみました。

「時代性とかなんとか言ってますけど、そもそも現代は信仰が失われつつあるということはご存じでしょう。僕だって現に春日さんとかと電通大の生協前で会う前は、信仰なんて縁がなかったんですから。しかし、だからこそ、信仰者が少なくなりつつある現代で、道は違えども信仰というものに出会えた同志を、時代が止まっているなどといって差別し下に見ることは、果たして神様は望むことなのでしょうか。神様は確かに、成約の御言葉なるものを聞いてほしいとお望みかもしれませんが、それよりも、そのような同志が、このような現代社会でもいることを喜ぶのが、まず先決だと思いませんか。」

 しかし、話す相手が悪かったとしか思えませんが、彼が僕の意見を聞いて、それを解釈して返答することはありませんでした。僕の喋りの音エネルギーが途絶えたかと思うと、即座に先述のようなことばかり繰り返して言ってくることしかしませんでした。

 そのような、全く会話になっていない音のやり取りをしばらく調布駅前の広場で繰り広げていましたが、そろそろ帰りたくなったので、まだ言い足りなさそうな戸枝を放っておいて、エスカレーターの方に行きました。流石にちょっと言い過ぎたかな?とも思いましたが、まあ先方が出方を変えてきたら、その都度今のように言い返してやればいいかと思いつつ、帰ることにしました。

(続きます)

ーーーあとがきーーー

 

・摂理の信者は「人は良さそうだが幼いし甘い」という印象を、他者からから見ると抱くそうです。(参:https://station.okoshi-yasu.com/shiryo/seturitoha.pdf)実際その通りで、全く同じ価値観以外のものは受け付けないし考えようともしないという人間が非常に多く、他の人間を見下してばかりいました。(繰り返しになっていると思いますが…)

 この戸枝(仮名)という男はその最たる例で、そのために僕は関わってきた摂理の信者の中でもこの男が一番嫌いでした。摂理の人間には、もうちょっと命(摂理の用語で、御言葉を聞きに来ている信者予備軍のこと)につける人の人選を考えてほしかったものです。

・「僕のような人間でさえも、神様は救ってくださる」のであれば、”時代性の違う”御言葉を聴く人も、神様は救ってくださるように思われるのですが…

 摂理では、救われる人間の数は決まっており、人類全体は救えないらしいので、このような考え方に走るのも無理はないのかもしれません。

・学生はこんな人間ばかりでしたが、社会人の信者たちは、もうちょっと一般世間との交わり方を心得ている方が多かったです。

・この”一般社会とのかかわり方”というものは、僕の中では、宗教の良し悪しを考えるうえでの大きなテーマとなっていました。外野の人間を十分に考えられて、尊重できるような土壌を持つ宗教というものは、良い宗教と言えるのかなと、摂理の信者という悪い例を見て強く思うようになりました。

 宗教と一般社会とのかかわり方とは、僕の感覚では、外国人と国際交流をするようなものが理想なのかなと感じていました。宗教的なルーツをもつということは、たとえ同じ国の人であったとしても、かなり違う文化規範で生きているということになります。摂理であれば、朝夕にお祈りという、一人で何かぶつぶついう独特な習慣を持っていることになります。外から見たらヘンテコです。でもこの社会集団ではそれが普通です。この外と内の普通のずれを、共感はできなくても理解はできるような状況を生もうとする活動は、国際交流と近いものがあるように感じられます。「僕の国ではこうなんだよ」「私の国では違うよ」と言って、一見常識外だけれども、理解をしようと努力するような、そのような感じです。

 これは僕の他のあらゆる宗教に対して持ってほしい理想というだけであって、それこそ摂理の人間が言うような”唯一無二の絶対の真理”ではないです。異端密教を信じたいのであれば信じる自由が少なくとも真っ当な民主主義国家にはあります。ですが、それと知らせないで誘導しマインドコントロールし、自分たちにとって都合の良い人間に仕立て上げ食い物にしようとするような宗教は、僕個人の気持ちとしては、滅びればよいと思っています。

カップケーキとお茶は美味しかったです。全部彼らのおごりでした(!)