交流4 「牧師」を名乗る男に会わされた話。

 時期は2月の中旬でまだテストが終わっていなかったころだと思います。(電通大のテスト期間は終わるのが遅い!)春日(仮名)からこのようなLINEが届きました。実際のLINEです。

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 そうして、会う約束をしました。最初は電通大の生協前で一回春日と合流して、それから調布駅前にあるシャノワールという喫茶店に向かいました。(摂理の人間とは、今後ここに集まったりすることが多々ありました)

 そこから向かう途中、今日会うひとについて、春日はやたらとほめたたえていました。

「いやあ、あの人はすごいんだよ!木村(仮名)さんっていうんだけどね。もうほんとマジですごいから!あったら絶対感動するぞ!」

みたいな感じのことを言っていたかと思います。

 そうして来てみると、入り口近くのテーブルに、その男はいました。全身を上等なスーツに身を包み、良い時計をし、身だしなみもとても綺麗に整えられていた、高身長で筋肉質な、いかにもエリートサラリーマンといった感じの男でした。

 その木村が向かい側の席、隣に春日という配置で席に着き、互いに自己紹介をしました。その木村という男は、以前はサラリーマンをやっていたが、今は脱サラして、奥さんの法律事務の手伝いをしつつ、「牧師」をやって過ごしている、と言っていました。宗派を聞いてみたら

「どこの宗派に属しているというわけじゃないんだけど、強いて言うなら”超教派”だよ」

と答えていました。(自分たちが摂理という団体の人間であることは、一言も喋っていませんでした!!)

 当時の僕は、まあそんなところもあるのだろうと考え、なんともまあ凄い経歴だなあと感じていました。そうして、彼と簡単なスモールトークをしていたら、どこかで、以前の食事会でもあったような、僕のパーソナリティなどを掘り下げていく展開の話になっていたかと思います。

 そこで僕は、物理をやるために大学に来たこと、やりたい研究の方向もある程度明確で「これをやるために生まれてきたと言っても過言ではない」といった強気な発言をしていた記憶があります。そうして、僕という人間の情報をよく聞いてから、話し手が木村のほうに切り替わりました。話の内容は、恐らく次のようなものだったと思います。(名詞などは間違えているかもしれません)

「世界の”四大賢人”という言うものを知っているかい。一人は孔子、一人は、ソクラテス、そしてもう一人はブッダだ。彼らは、それぞれある”真理”を述べていたんだ。知っているかな?」

孔子のくだりは忘れてしまいましたが、恐らくは”怪力乱神を語らず”の話だったかなと推測されます)

 僕は、ソクラテス無知の知*1ブッダは無を悟ること、などと答えていたと思います。それを受けて木村はこう答えていたかと思います。

「そう、その通り。彼らは、それぞれの道を究めた、大天才だったんだ。そうして、彼らは一つの真理に辿り着いたんだ。彼らの答えのをまとめてみると、何になると思う?それは”無”だ。人は人の枠組みの中で任意のことを究めると、必ず”無”に辿り着くんだ。ただ、賢人たちの中で、唯一”無”に辿り着かなかった賢人がいたんだ。誰だと思う?」

 僕は分からなかったので、素直に分からないと言いました。そうしたら次のように帰ってきたかと思います。

「それはイエス・キリストなんだ。他の人たちと比べると、少し変だな?って感じるかもしれないが、事実、世界中の著名人の多くは彼を一番の偉人、賢人であると言っていたりするんだ。それは、彼の発見した真理こそが理由だったわけなんだ。そしてそれは何だと思う?

 それは”神”だったんだ。言ってしまえば、人が人という枠組みの中でどれだけ究めようとしても、帰着するのは”無”になってしまうんだ。しかし、彼は違った。”神”という、人を超えたものを考えることで、人の枠組みでしかできないこと以上のことをやってのけたんだ。事実として、キリスト教は世界中に広がり、そして今なお信じられており、かつ信仰を持たない人にでさえも影響を与え続けている。神という、人より上位の存在に ”引き上げられることで” 彼はこのような偉業を成すことができたといえるだろう。歴史上の偉人たちの中に、信仰を持っていた人が多いというのも事実としてあるが、それはこのような理由によるものじゃないかな。

 そして、”神”というものについて全てまとめ上げられた、世界で一番発行され、読まれている書物があるのを知っているね。それは聖書だ。聖書に書かれた言葉の一つ一つのことを、”御言葉(みことば)”というんだ。御言葉を学び、信仰を実践していけば、歴史に名を遺した多くの人々のように、人の枠組みを超えた、偉業を成すことができるのだとおもうよ。

 君は、話を聞くに、生きていて何か迷いがあるとかそういうわけではなく、ちゃんとした目的を持つ人みたいだね。しかし、その目的を成すための強力な手段、人のもつ成約を超越して何かを成し遂げることを可能にするものとして、御言葉を学んでみるのも、いいんじゃないかな。」

 このような大演説を聞かされていたのを覚えています。彼の話は実に面白く、人を揺り動かす強いエネルギーがありました。それに非常に精神をたぶらかされていた実感が強くありました。ただ、それと同時に、考えていたこともありました。

 彼らは口には出していないけど、宗教の人間だろう。横に座っている春日もそうだろう。ただ、気になることもある。信仰を持つことが、果たして物理をするのに役に立つのだろうか?事実として、ニュートン神学者としての側面があったし、コペルニクスは司祭だったし、ガリレオは敬虔なカトリックだった。聖書を学べば、彼らのようになれるのだろうか?

 まあ怪しい連中だけど、ここで引き下がるのは面白くないだろうし、せっかくだから首を突っ込んでみてやろう。何か面白いことでもあれば、それは願ったりかなったりだろう。そんな風に考えていたかと思います。

 そうしていたら、そろそろお開きにしよう的な雰囲気になり、それを悟ったのか、木村の方は明るく別れの言葉を述べながら、伝票を持って去っていきました。(粋ですね!)なかなかの大演説だったので、僕と春日は隣同士に座ったままになりながら、しばらく脱力していました。そうしていたら春日の方から

「いや、こんな風に座ってたらなんか変な感じがするな」

などといって僕に座りなおすように促してきました。(そっちの気のある人なのかな?と当時は思っていましたが!)そうして座りなおしてから、木村のことについて話していたと思います。そしてそのあと

 「聖書ってすごいっしょ!勉強してみない???僕も勉強してるんだけどさ!」

みたいなお話を振ってきたかと思います。ここは木村のアジ演説を聞いた後ということもあって二つ返事で了承したかなと思います。そうしたら

「来週の金曜にうちに来てよ!」

みたいなことを言われ、行くと約束した後、お互いそれぞれの帰路に就きました。

 それから春休みに入り、聖書の勉強(彼らは「バイブル・スタディー」と呼んでいました)が始まりました。そしてそれは、摂理を摂理たらしめる洗練された洗脳の過程でもあったわけなのですが…

(続きます)

<補足>

 木村の話の中には、ここではどのような流れで言っていたかは覚えていないけれど、話の内容だけはおぼえているものがあるので紹介します。

 「僕が大学生のころ、ネパールに行ったことがあるんだ。ネパールなんて、日本と比べたら圧倒的に後進国なわけだ。そういうわけで、僕の中でも、表には出さないけど、そうした一種の差別意識、特権意識的なものはあったわけなんだ。けれど、そうもいってられなくなった出来事があったんだ。ネパールで、あるお婆さんに出会ったんだ。この人がとてもいい人で、当時の僕みたいな下衆なことを思っているような人間にさえも非常によくしてくれたんだ。しかもそれだけじゃなくて、僕が泊まる予定だった山小屋があったんだけど、そこが今夜襲撃されるから、やめておきなさいと忠告してくれたりもしたんだ。もうこのお婆さんは僕にとって命の恩人に等しくなったわけなんだ。こんな僕にさえ優しくしてくれる。けれども、なぜ優しくしてくれるんだろう??そこで聞いてみたんだ、どうしてこんなに良くしてくださるんですか?って。そうしたら”神様を信じているから”と言われたんだ。世界中のどんな場所、どんな時でも、神様はみていてくださるから、悪いことはできないし、また良いことをしたらそれを必ず見ていてくださって、その報いを必ず返してくださるからだって、そんな風に言われたんだ。このとき、僕は、日本なんて見かけは先進国で、ネパールは後進国だけど、信仰の根付いてるネパールの方が、圧倒的に上の国じゃないか、そう思ったんだ。それから日本に帰って、いろいろな宗教を巡って、学んでみて、その中でキリスト教が一番いいと思って、働きながら牧師をやり始めて今に至ったんだ」

 みたいな話です。彼の生い立ちみたいなものですね。それからもう一つあった話でこういうのもありました。

「”真理は人を自由にする”っていう、聖書に由来する言葉を教えてあげよう。真理というものは、人を縛ったりするものではなくて、むしろより豊かにしてくれるよ!っていう意味合いを持つんだ。例えば、モーセ十戒に示されたルールってものがある。これには

・盗むな

・殺すな

・姦淫するな

そのようなことが示されているんだ。盗んではいけない、殺してはいけない、姦淫してはいけない。このようなルールを課すことは、一見すると、人を束縛するものかもしれない。しかし、こういうルールを課した人間社会は、そうではない社会、隙さえあれば盗まれる、殺される、姦淫される、そんなのが蔓延る社会よりもより強い社会になったんだ。これは歴史にもあることで、そういった社会こそが生き残ってきたわけなんだよ。

 もう一つ、具体例を示してあげよう。ネパールでは、日本で言う道路交通法が無かったんだよね。そのため交通ルールや信号機なんかは何もない。だから車が交差点でかちあったりしたら、お互いがクラクションをぶんぶん鳴らして、無理やり通ろうとする羽目になるから、しょっちゅう渋滞が起きる。本来なら3分もあれば通り抜けられるような道でさえ、なん十分とかかってしまうわけなんだ。だけれど、道路交通法があって、交通ルールを作って、それを皆が守れば、そんな渋滞なんて起きなくなるし、そのおかげで、渋滞が起きて浪費する時間のぶん、自由な時間が生まれるというわけなんだ。”真理は人を自由にする”ということの意味はこんなところだよ。」

 最後にもう一つ、こういう話もされました。

「”真理は人を自由にする”、この話を最初に伝えてくださった”牧師先生”がいるんだけどね。この先生は、ベトナム戦争に従軍していたんだ。だけれど、キリスト教の教えを守り、実践するために、そこでは人ひとりも殺さなかったんだ。それどころか、そういった極限状況だからこそ、救いを求める人がいると信じて、戦争のさなかでも、敵味方関係なく伝道しておられたんだよ。」

 (そういえば、木村が帰ったあと、春日のやつが、やたらと「この”牧師先生”すごくない???」って言っていました。)

ーーーあとがきーーー

 ・摂理の人間と接していると、とにかくこの”牧師先生”とやらの伝説を聞かされます。この牧師先生というのが摂理の教祖であるチョンミョンソクという韓国人だったりします。(名前は絶対に教えてくれませんでしたが…)

・摂理では、何か大切な話をするときは「隣に比較的仲のよさそうな信者を置き、真向かいに他の人を置く」という形式をとることがかなり沢山ありました。実際そうすることで警戒心を減らし、緊張を解くなどの効果はあったように思います。なかなか巧妙なことをしますね。

・春日はゲイではないだろうと思われます。後々に述べることになるだろうと思いますが、そもそもキリスト教系の宗教は認めない雰囲気が結構強いようだからです。

・一緒に観劇しに行った後、そう間を置かずに、僕に木村を会わせようとしたのは、「こいつはそろそろ馴染んできて警戒心が薄れてきたころだろうから、バイブル・スタディを切り出しても大丈夫だろう」などと思われていたからではないかと推測されます。ただ、摂理の信者と知り合っても3年以上間をおいても切り出さないケースもあったようです。*2 、この辺りの丁寧・巧妙に勧誘を進めていくのは彼らの特徴でもあります。

・物理学者は信仰を持っていた人も多いのですが、大っぴらに無神論を振りかざしていた大物理学者リチャード・P・ファインマン博士なんかもいたりするので、結局信仰と物理なんてそんな関係ないだろうと思われます。

 

*1:哲学の世界では、”無知の知”ということは間違いであり、正確には”不知の自覚”というようです。「無」とは明確に違うものであると思われますが…

*2:櫻井 義秀 キャンパス内のカルト問題ー学生はなぜ「摂理」に入るのか?- p133 高等教育ジャーナルー高等教育と生涯学習ー15(2007)