交流5 聖書の勉強「バイブル・スタディ」をやり始めた話。(前編)

 時期は春休みに入り始めたころでしょうか。彼らのマンションに行き、聖書の勉強の勉強をしようという話になりました。彼らはそれを「バイブル・スタディ」もしくは「御言葉を聞く」などと表現していました。彼らの話では、どうも他大学の大学院生が来て、無償でおこなってくれるらしく、日程調整なども彼らが行ってくれていました。(思えば非常にスムーズに進行していた!!)そうしていってみると、初対面の若い男がいました。

 彼は都内の(電通大ではない!)国立大学の大学院生で、主に数学の教育学を専攻しているとのことでした。見た目は日焼けしていて浅黒く、髪の毛を短くしており、筋肉質でいかにもスポーツやってます!といった感じの方でした。そしてその見た目通り、野球をやっていたようです。彼にはよく「御言葉を伝えて」もらっていました。(多分一番教えてもらっていたと思います)名前は熊沢(仮名)と言いました。

 来て早々、さあ授業を始めるかというと、そんなことはありませんでした。その人と僕、あと春日(仮名)やそのほかの信者と一緒に、自己紹介をしつつ、まず事前に世間話をし始めました。彼らの話では、まず事前に関係ない話をして、お互いをよく知ってからバイブルスタディをすることで、より一層上手く伝えることができる、とのことでした。

 その世間話というのも少し気風の変わったもので、「どうして今の大学を選んだのか」「将来は何をしようと考えているのか」などといった、ちょっとその人の内面に突っ込んだような、彼らの言い回しでは「深い話」といったようなものでした。僕は熊沢に「いつ、このような聖書の勉強を始めたのですか?また、そのきっかけみたいなものは何ですか?」などと聞いてみました。熊沢は確かこのように答えていたと思います。

「自分は小さいころから野球をやっていて、それをずっとやり続けてもう10数年ほどにもなるんだ。自分の過ごしてきた人生の時間のうち殆どは野球をして過ごしてきたんだ。野球をやりながら、教師になろうとして勉強をして、良い大学に進学した。そうして大学に入って、ある程度自由な時間を得られたときも、特に疑問を持たずに大学の野球部に入って野球をやった。けれど、そうして野球をやっている中で、ふと疑問に思ったんだ。自分は、特にプロになろうと思ってまでここまで野球をやってきたわけじゃない。それなのに、とても長い時間、野球をして過ごしてきた。もし自分から”野球”というものを取っ払ったとき、その時自分には、何が残っているのだろう?

 何も残っていないだろう。じゃあ、自分は、そもそも何で生きてきたんだろう。そもそも、自分の人生の目的は何なのだろう。それは野球じゃなかった。長いことやってきた野球でさえ、その人生の目的というものにはならなかったのに、何が人生の目的となるのだろう。

 そんな悩みを抱えていたころに、同じく野球をやっていた友達にこのような悩みを打ち明けたんだ。そうしたらその友達は”君の悩みに応えられるものは、僕は「聖書」しかないと思う。僕と一緒に勉強してみないか?”と答えてくれたんだ。それがきっかけになって、今の君みたいに、聖書の勉強を始めたんだ。

 聖書は、そもそも「私はなぜ生きているのだろう」「何をしてはいけないのか、何をするのが良いのか」といった、現代の教育では見過ごされがちだけど、人間には欠かせない大事なものを取り扱っているんだ。そして、いまでも勉強中だけど、少しだけ教えることもできるようになったんだ。僕がかつて持っていたような、こんな悩みをもつ人の手助けをするために、今はこうして御言葉を教えていたりするんだよ」

 そのような話を30分強していたかと思います。そして、別室に移って、熊沢と一対一で、バイブル・スタディを始めることになりました。

(切りが良いので2分割します。続きます)

 

ーーーあとがきーーー

・熊沢に限らず、他の大学院生にも教えてもらう機会があったのですが、そのたびに、事前に先述したような世間話をしていました。そのおかげで、僕は一種の「コミュニケーションの技術」を培うことができたと思っています。(これは摂理に入信するメリットなのでは?と今でも思っています!)

・この事前の世間話で、僕はよく「いつぐらいから御言葉に出会いました?」(翻訳:いつ摂理からの勧誘を受け、バイブルスタディをすることになりました?また、なぜ聖書の勉強などというものをしようと思ったのですか?)と教師役の人たちに聞いていました。教師役の人たちは皆「大学に入ったのはいいけれど、自分の人生の目的、将来の方向性が分からなくて悩んでいたところ、運動部や友達から聖書を進められて、そして勉強し始めて、今に至った」みたいなことを言っていました。こういった悩みを持つ人が宗教にはまるのかなと考えられますね。