交流6 聖書の勉強「バイブル・スタディ」をやり始めた話。(後編)

 交流5の続きです。移動した部屋は四畳半強程度のこじんまりとした部屋で、机、椅子、そして、以前の食事会で春日(仮名)がレクリエーションで使っていたでかいホワイトボードがありました。(交流2より)そして机の上には教師役用の、朱筆で膨大な書き込みの入った聖書と、生徒用の何も書いていない聖書がありました。どちらも口語訳のもので、なかなかに使い古されていました。

 そこに、熊沢(仮名)と僕とが入り、向かい合うように椅子に座り、そうして講義が始まりました。彼はパソコンを開き、適宜僕の様子を伺いつつ、適度に問いかけをしながら、ホワイトボードを用いて講義を進めていきました。(教員志望というだけあって、彼の教え方は、今までに関わってきた学生の摂理の信者の中で一番上手でした。彼は良い教師になれると今でも思います。宗教勧誘してくると思うけど…)

f:id:Dranpontan:20200329164806j:plain

当時僕がとっていた「バイブル・スタディ」のノートです。名前が書いてあるので隠してあります。

 講義の冒頭で、まず旧約聖書新約聖書の「旧約」「新約」とは何かについて教えられました。曰く”約”とは人間と神様との間で交わされた「救い主(メシア、キリスト)」を送るよ!という約束のことを指しているとのことです。よって「旧約」とは神様との古い約束で、救い主イエスを送るよ!ということを意味し、「新約」とは神様との新しい約束で再び救い主を送るということを意味しているようです。(新しいキリストとは、いったい誰のことでしょうかね??)

 そして、聖書には、正しく読まなければならない、と言われます。なぜなら、

「1:20聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。」(ペテロ第二の手紙)

と書いてあるからと言っていました。

そして、聖書は

「13:34イエスはこれらのことをすべて、譬(たとえ)で群衆に語られた。譬によらないでは何事も彼らに語られなかった。」(マタイによる福音書

より、譬、つまり「比喩で書かれている」から、その比喩を解かなくてはならない、その比喩を解いて読む方法ことこそが、正しい聖書の読み方だ。と言っていました。そして、比喩が何に対応しているかは聖書に書かれているので、それを探し出して読む必要がある、とのことでした。

 その比喩で読むやりかたの具体例を一つ示します。

「17:27しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」(マタイによる福音書

ここで示される”魚”とは、

「1:14あなたは人を海の魚のようにし、」(ハバクク書)

より、魚とは”人”を示しているんだ!と言われるわけです。

 このようにして、各種名詞に対応する名詞を聖書の中から探し出し、解釈するやりかたを見せられます。これの繰り返しによって講義は進められていきます。

 こうして、聖書とは合理的に解けるのであって、世間一般で話されるようなおとぎ話めいた話をそのまま解釈するのは違った読み方であり、我々のやっている読み方こそが唯一の正しいやり方である!と示されていきます。

 そうして、講義の合間合間に「この話を最初に伝えてくださった素晴らしい牧師先生」なる人物の逸話を聞かされます。曰く、学校にいけないほど貧しかったから、学校の勉強の代わりに聖書を2000回読んで、やっと、聖書の比喩を解くような、正しい読み方を発見した、悟ったなどといった話をされます。

 このときの話は「ペテロと魚」という話でした。そこから、先述したような解釈方法によって、教訓を見出していきます。

 この話で導き出された教訓とは

「キリストにあったら(もう二度とこないような人生のチャンスに出会ったらとも言われますが)何をすればよいか?」といったものでした。そのときペテロ(キリストの一番弟子)は

1:普段から善い行いをした

2:固定観念をもたなかった

3:大事なものを捨てた

から、成功したのだ!と言われました。(ルカによる福音書5章より)だから、我々もそれに倣って過ごせば良い!!ということのようです。

 このような講義を受けて、今回は終了しました。そうして、今日の御言葉の感想を言いあったり、「次回はいつ御言葉を聞く??」といって予定調整をしたりしたのち、それぞれ帰宅しました。1年生のときの春休みは、信者の連中によるこんな講義を毎日聞きに行っていました。

(続きます)

ーーーあとがきーーー

・当然ですが「聖書は比喩で書かれている」などとは、一般的なカトリックプロテスタントは言いません。魚はあくまでも魚です。ただ、元々キリスト教徒ですという人でもなければ、かなり緻密で一見合理的に論を進めているので、正しいだろうと思いこまされてしまうと考えられます(僕がそうでした!)

・ちゃんとした研究では、摂理のバイブル・スタディ(三十講論といういいかたがあるようです)は「脈絡のないバラバラの聖書解釈を編纂したものでしかない」(櫻井 2007)ようです。当たり前ですね。

・実は「聖書は比喩で書かれている」と言い始めたのは、摂理ではなく、統一教会と呼ばれる韓国発のキリスト教系異端カルトだったりします。(献金勧誘問題などで有罪判決を受けていたりします)教祖チョンミョンソクは自身が摂理を作る前にここに3年ほどいたようです。つまり教義をパクっていたわけですね。これで唯一無二の絶対の教えなどとよく言えたものです。

・この摂理式の教え方、すなわち「事前にお互いのことをよく知る機会をつくり、そのうえで一対一の状況で、適宜反応をみながら講義を進めていく」手法はとても高い学習効果があります。「ある面で評価尺度(GDP)や履修法(コア・カリキュラム)の厳密化や、FD(Faculty Development 教育方法の開発)による教育技量の向上を図っている大学が太刀打ちできないほど、摂理は「教え込み」の要をよく心得ている。」(櫻井 2007)という評価もあるくらいです。そしてこの高い教育効果は、学校の落ちこぼれを信者として取り込む効果も生んでいたりするのですが…

・ここの段階ではまだ実感がわきませんが、後々になって、段々とこの方法によって、”素晴らしい牧師先生”がキリストであることを示されていきます。そして、このときの話で出てきた

1:普段から善い行いをした

2:固定観念をもたなかった

3:大事なものを捨てた

とは、

1:お祈りをや御言葉を聞き、宗教活動をすること

2:他の考えを受け入れないこと(聖書の比喩を解かないで読むことは固定観念ですからね)

3:自分の今やっていることよりも、宗教活動を優先しなければならない

ということを示していたんだ!と気づくように仕向けられていたりします。とんだ伏線ですね。

 

<参考文献>

・櫻井 義秀 キャンパス内のカルト問題ー学生はなぜ「摂理」に入るのか?-高等教育ジャーナルー高等教育と生涯学習ー15(2007)