交流7 彼らによって、悩みが解けたような話。

 摂理の信者と関わっていると、いろいろな人(特に自分と親しいと思われているような人)によく「悩んでいることとかないの?」などと聞かれます。そのようなことを聞かれるたびに、僕は「女性関係で悩んでます」などとぼやいていたような気がします。(当時はよく修羅場になったり、両脇を警察に固められてパトカーにぶち込まれたりしていました。要するに荒れていたんです…)恐らくそれを聞いて何やら画策していたのだと推測されますが、それについてのお話?のようなものをされたのだろうと思われる出来事がありました。今回はそんなお話です。

 春休みに入ってからは大体毎日、彼らのところへ行き、御言葉を聞いていました。そうする中で、キリスト教式の文化、生活、行動規範などといったものはどのようなものなのかについて興味を持ち始め、それらについて調べたり、時には彼らとは独立してそのようなものを勉強したりしていました。

 そうして調べている中でも、また摂理の信者たち(このときはまだ、明確な宗教団体の連中などとは思っていませんでしたが)の生活や人となりを見ていたりする中においてでも気づいたことがあります。それは、キリスト教式の信仰生活の特徴は「身の回りのありとあらゆる出来事を、すべて神様に”こじつける”」ことなのかなということです。そのような思考形式は、何かの役に立つのかな?と考えていたりもしていました。

 それに感づいたころのことです。(LINEを確認したところ、3月中旬ごろのことでした)いつもは彼らのマンションに行くのですが、今回は熊沢(仮名)が後に用事があるからとのことで、調布駅前のシャノワールで御言葉を聞くことになりました。

 そうして、シャノワールの適当な席に、前に熊沢、横に春日(仮名)という配置で座りました。

 熊沢曰く「今回の御言葉はいつものとは少し違うものになるんだ。僕がこの前教会に行ってきたとき”今の君には絶対に必要な話”だと感じたものを聞いたんだ。今日はそれを伝えようと思うよ。」

 とのことでした。話の内容は次のようなものだったかと思います。

 「”愛とは関心である”というお話を聞いたんだ。愛情の反対は無関心と言うくらいだから、無関心の反対と考えると、割と自然に聞こえるね。だから、何か愛の対象があって、それのせいで苦しみが生じるようなことがあったりすると思うんだけど、それは元々をたどれば”関心”があるから生じるんだよ。もし、君がそれに近いことで悩んでいることがあるとするのなら、それから抜け出すためには、関心を持たなければいい。神様がおっしゃった真理の一つ一つが納められた聖書には、そのように書いてあるんだ。」

 それを聞いて、僕は感動していたかと思います。なるほど確かにその通りだ!そうか、そのためにひどい目に遭い続けていたのか。じゃあ、関心を持たないようにすればいい。なにせ世界の真理が納められている聖書にはそのように書かれているのだから!そんな風なことを頭の中で繰り返していたかと思います。

 その感動とあいまって、先述した「身の回りのありとあらゆる出来事を、すべて神様に”こじつける”」思考形式のことを思い出しました。これらを踏まえて、話が終わった後に、このように返事をしていたと思います。

 「とても面白い話でした。確かに、今の僕には、その話がとても必要だったように思います。そういえば今日、僕は遅刻しそうだったのですが、ここに来るまでの電車は、全部特急電車だったんです。”これも、きっと神様がこの話を僕に聞かしてくださるために、このように導いてくださったのかもしれません”」

 そんな話をした後、熊沢や春日はとても喜んでいたのを覚えています。「そうだよ!神様はそのようにしてくださったんだよ!よく気づくことができたね!ここまで神様のことを分かってくれるような人間は全然いないんだよ!君は気づくのが速い!!凄いよ!」みたいなことを言っていたと思います。

 そうしていたら、熊沢は出かける時間になっていたので、一足先に出ていきました。そのあと、しばらく、僕と春日は「神様ってすげえな!!」みたいな話をして盛り上がっていたと思います。

(続きます)

ーーーあとがきーーー

・「身の回りのありとあらゆる出来事を、すべて神様に”こじつける”」キリスト教徒式思考様式は何かの役に立つのかなと、結構長く考えていました。そして「他の誰かには役に立つのかもしれないけれど、少なくとも自分には必要ない」という結論を出したのですが、それを思いついたのは摂理の連中と決裂してからだいぶ後になってからだったと思います。宗教は脱退しても、精神状態にはかなり長く影響するものだと考えられます。

・聖書によって悩みが解けるという経験を与えると、結構入れ込むようになります(実体験済み!)なので、彼らは僕から適当な悩みを引き出して、それに対してどのような聖書由来の話をすることによって解決させるか、話し合っていたものと思われます。でなければここまで集団で手厚くサポートできないと思われるからです。摂理にはこのような、悩みに対する想定問答集でもあるのでしょうか。

・結局、彼らからこのような話を聞かされたけれども、お悩み解決に至ったかと言われるとそうではなかったです。この後も修羅場になることが多々ありました…

・「愛の反対は、憎しみではなく無関心」というようなことを言ったのはマザー・テレサのようです。(当然ですが彼女はカトリックであって摂理の信徒ではない!!)今回の話はそのアレンジver.といったところでしょうか。