交流10 段階的に解禁されていく宗教行為、祈り、賛美歌

 摂理の勧誘手法としては、まず最初に他と全く変わらないような友達関係になるところからスタートし、それから聖書の勉強をすすめ(証するといいます)、それが進んできたら徐々に宗教行為(祈り、賛美歌)をするように誘導していきます。そして最終的には講義の合間に挿入される話に出てくる”牧師先生”が再臨のキリストであると自分から言い出したら、摂理の信者としての仲間入りとなります。今回はその中で、宗教行為に関する話です。

 バイブルスタディが進んでくると「より良く、正しく御言葉を伝えるため」と称して、最初は信者の方が講義の最初と終わりにお祈りをするようになります。そして、話を聞きに来ている僕にも、お祈りをするように勧めていきます。

 例として、バイブルスタディの開始前に行うお祈りで教師役の人が喋る内容を以下に述べていきます。4畳半強の部屋に教師役、僕が椅子に座って目をつむったような状態で、このように喋っていました。

「神様、御子様、精霊様。今日またこうして、(僕の名前)に御言葉を伝えてあげられる機会を恵んでくださったことについて、誠に感謝します。

 今日の御言葉を伝える時間がより良いものとなって、彼により良く御言葉が伝わるように、そのようにしてくださることを、心よりお願い申し上げます。

 また、もしサタンがここにいて、私たちを惑わそうとしているのであれば、それを退けてくださることを、切に願います。

 愛するキリストの名前によって、お祈り申し上げます。

 アーメン。」

と言って、最後の「アーメン」を聞いたのちに他の人(僕)も「アーメン」と唱えました。

 これについて少し解説します。お祈りとは、神様との対話であると言われています。カトリックなら十字を切る動作をしますが、プロテスタントはしません。そのどちらにも属さない異端である摂理ではプロテスタントと同様の形式でした。

 お祈りには詳しい形式はないのですが、”このようにすると良い”と言われるものがあって、それに倣って進めていきます。 

 まず最初に、聖三位(神様と御子様(キリストのこと)と精霊様)に感謝をします。次に、懺悔やお願いなどをしていきます。また、サタンを退けるようなお願いをすることもあります。(サタンとは要するに悪いやつです。人間の悪い行いは全部これのせいにされます。講義に集中できなかったらサタンのせいだと言います)そして一通りのお願いや懺悔、その他様々な独白をしたら、キリストの名でお祈りに封をします。このようにすることで、神様に祈りが届くことが保証されます。そして最後に「アーメン」と唱えます。これはヘブライ語で”まことに、然り、同意します”の意味があります。お祈りを聞いている他の人が「アーメン」と唱えると、聞いていたお祈りに同意したことになって、喋っていなくても全部独白してお祈りしたとみなされます。

 最初は僕はお祈りは断っていたのですが、信者の方に「下手でもいい。要するに神様に伝えようとすることが大事なんだ。」といわれ怒られたりしたことがあります。そこから、徐々に習慣づけられていったと思います。

 そうして、お祈りに抵抗感が無くなってくると、次は「サタンを払い、神様と通じやすくして、より御言葉を良く正しく伝わるようにするため」と称して、バイブルスタディの前に賛美歌を歌うことを進められていきます。このとき歌われる賛美歌は教祖チョンミョンソクが作成したものであると教えられたのですが、この賛美歌こそが、僕が摂理に対して明確に違和感を持ち始める最初のきっかけになったのです。

(続きます)

ーーーあとがきーーー

・この「サタン」というものは、一般に良く知られた、キリスト教で良く出てくる悪魔です。これは他の教会でも同様なのですが、信者同士で問題が起きたり、何か失敗したりすることなどが起きたとき「これはサタンのせいだ」とよく言います。このようにしてサタンをスケープゴートにすることで、信者同士のもめごとなどの解決を図ることが良く行われています。(無意識的に行っているものですが)

・摂理の信者にお祈りについて習ったとき、”瞑想”と”お祈り”の違いを「瞑想は自分に対して集中するけど、お祈りは神様に対して集中する」と教えられたことがあります。当時の僕の実感としては、目をつむって何も考えないようにすることよりも、神様という適当な対象を想定して、それに注意を向けることに専念することは、何も考えないようにすることよりも容易な集中方法だなと言うものがありました。これに関する考え方については今でもあまり疑問を持っていません。

・「何かおかしいとか、疑問を生じたりしたら、お祈りをして、神様に自分の向かうべき道を教えてもらいなさい」と摂理の人たちにはよく言われました。ただ、神様から教えてもらえるようなことは全て摂理の人間によるバイブルスタディで吹き込まれていくので、摂理の連中に倣ってお祈りをすると、最終的に彼らの都合の良い結論へと方向づけられてしまいます。自分から自発的にやらせるように仕向けたお祈りという習慣に、彼らに都合の良い答えへと誘導する機能を付けていることは、摂理のマインドコントロールの鮮やかさを際立たせているものがあるように思われます。

 

 

交流9 摂理に入れ込んでから行った「食事会」/”霊体”について

 摂理の御言葉のなかでは、人は肉体(body)、心(soul)、霊(spirit)の3つでできていると教えられます。心と霊の区別は難しく感じられると思いますが、人間の肉体的でない部分の活動のうち、神様関係の部分のことが霊であると考えれば差し支えありません。この霊を向上させるということを、摂理では至上命題の一つとしています。宗教活動や禁欲(これに飲酒や恋愛の禁止も入るのですが!)、その他様々な”良いこと”をすることによって、霊を向上させることを目指しています。そのため、普通のボランティア活動や慈善活動といったことを信者は進んで行ったりします。そうして霊の向上のために活動する信者を褒めたたえたりする習慣があったりするのです。今回はそれに関したお話です。

 御言葉を聞きに行っていたころ「普段の御言葉とは別で食事会をやるんだけど、こない?」といったお誘いがありました。その準備から参加することになったので、18時に彼らのマンションに行ったことがありました。

 参加した人のほとんどは摂理の信者でした。このブログに載せた人で言えば、春日、山田、佐々木、(みな仮名です)がいたのは覚えています。熊沢(仮名)もいたかもしれません。

 今回の食事会では餃子が供されることになっていました。それと10合の米だけという、とにかくマッチョな食い合わせだったのを覚えています。そうしてご飯を食べつつ、御言葉の話をいろんな人と交わしていたと思います。

 僕は当時、毎日のごとく御言葉を聞きに行っていたので、様々な人に褒められました。それはもう褒め殺しです。ただ、そのほめ方というものが結構変わったもので、電通大OBの佐々木なんかは

「いやあ、俺ね、他人の霊が見えるんだよ。ほんとだぞ?もう最近の君の霊なんか、滅茶苦茶成長してるのが感じ取れるし、見えるんだ。いやあここまで成長の早い霊体をもつ人なんかなかなかいないよ。流石だねえ。頑張っているんだねえ。」

 などといっていました。それに限らず、他の人たちも霊体の話をしてわいわいと騒いでいたと思います。僕は、これ言わんとしてることはまあわかるんだけど、何も知らない部外者から観たら、すごく気持ち悪い光景に見えるだろうなと考えていました。まるで変な宗教みたいだ!でもまあ、このような独特のノリみたいなものは、ほかの業界でもあるものだと思っていました。(僕は高校時代演劇部に所属していましたが、その場で即興劇を始めたり、あいさつ代わりにお姫様抱っこするとか、そういった奇怪なことを部内でやっていたりしていました。それに類する?ような身内独特のノリです。)彼らは聖書の勉強会を中心にして集まっているんだから、こういった独特の会話で盛り上がるんだろう。その程度に考えていたので、あまりびっくりすることはありませんでした。

 また、霊の話をしていると佐々木から

「俺も霊がわかるんだけど、よく聞いてる御言葉を最初に伝えてくださった牧師先生はもっとすごくて、何も見なくても一瞬でその人の霊体を見抜くような素晴らしい能力をもっておられるんだ。やっぱり聖書を2000回読むような先生は凄いなあ。君にも一回あってほしいなあ。」

 と、しきりに”牧師先生”なるなんかすごい人物の宣伝をよくされたことも覚えています。

 そのような、以前のものよりも更に一歩進んだ、ある意味「気色悪い」雰囲気を楽しんでいたりしていました。

(続きます)

ーーーあとがきーーー

・人が肉体(精神もですが、よく忘れられます)を持つ理由は、肉体が生きている時間の間だけしか霊体を育てることはできないからであると言われます。なので、摂理には「一日1時間を無駄にしたら、一年で365時間、80年で29200時間無駄にしてしまう。そのような時間を1秒たりとも作ってはならない。その間に、霊を成長させる貴重な時間を無駄にしてしまう」といった、実績はないくせに意識だけ高い自称進学校的なノリがかなりありました。

・霊を成長させる理由は「神様は全知全能であるが、唯一無二である(一人しかいない)ために、愛する対象がなかった。だから、自分と愛し合うための存在として、人間を自らの姿に似せて作った。だから、神様が人間を創った理由は、自らの恋人・新郎新婦、すなわち愛し合うための存在を欲したためである。人間は、その神様の目的に沿うために、神様と恋人にならなくてはならない。しかし、神様は霊的存在であるから、神様と愛し合うためには、霊を神様の恋人にふさわしいくらいに育てなければならない。」という摂理の教義に拠るものです。つまり彼らの解釈では、神様というものは(彼女いない歴=年齢)の非リアの陰キャということになるわけです。なかなか神をも恐れぬ無礼ですね。

・上述のような、神の愛を恋愛や家族愛のように解釈したりすること、また淫蕩な行いを戒めること(摂理は恋愛禁止です)などは、韓国系の新宗教に特有のものです。このような聖書解釈は、朝鮮文化によるものであると推察されます。

・人は肉体、心、霊の3つでできている。ということは、摂理に限ったものではなく、キリスト教文化特有のものです。WHOの定める健康の基準の英語版にはこれら3つが完全な状態であることが健康には必要であると言われていたりします。

参考:原語版の”健康(Health)”の定義

Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.

ここに"spiritual"、霊について述べられている箇所がありますね。

・目的が宗教チックないかがわしいものであれ、宗教にはこのような社会福祉を担い、推進する役割があるように考えられます。難解で、部外者から見てどうでもよい理由のためとはいえ、信者にこのような活動を進んで行おうとさせる環境を宗教は持っているようです。このような、一般社会に対して貢献するような側面を持っていることは、宗教の良い部分であるとも思っています。

交流8 御言葉を聞きに来ていた他の人/信者の共通点

 まだ御言葉を聞きに行くようになる前、2018年の12月下旬ごろ(僕はまだ1年生でした)に、春日(仮名)とランチに行ったことがあります。そのとき、彼は

「友達とやれカラオケ、ダーツ、ボーリングに行くだとか、そんな遊びをしていてもひどくむなしくなる。そんな風にして学生生活を無駄に過ごしてきたことを悔やんでいるんだ。学年が2年3年と上がっていくと、電通大では忙しさが減るということもあって、周りがまじめに努力しない、バカばっかりになっていくことが分かるんだ。そして、自分もその一人だったってことを思うと、ずいぶん時間を無駄にしてきたなって思うんだ。」

 というふうなことを確か言っていたと思います。そのとき僕は適当な言葉を選んで励ましてやっていた記憶があります。彼が言っていたような、レジャー活動に専念し、遊び惚ける生活をしたところで、何か楽しい、面白いような感覚を持てない、と言っていた人は、摂理にかかわっていた人間にはかなり多いように思われます。(僕もその一人でした)それを実感したのは、その時の僕と同じように、御言葉を聞きに来ていた人と話していたときのことなのです。

 2019年3月ごろのことです。いつものように彼らのマンションに行って御言葉を聞いていたころに、同じく御言葉を聞きに来ていた人がいました。彼は当時3年生(僕より2学年上でした)で、僕と同じく電通大の3類に所属していました。そのときの僕よりも御言葉の進捗は少し劣っていたかと思います。誰が御言葉を伝えてくださるんだろうとか、そのような話をして、教師役の人が来るまでの間の時間つぶしをしていた記憶があります。

 御言葉を一通り聞き終わってから、彼と一緒に調布駅まで歩く機会があったのですが、そのときにこんなことを言っていたかと思います。

 「自分は大学に入ってから、サークルの人たちとかで遊びに行ったりとかしかしてなくて、特に何かをしていたわけじゃなかったんだ。だけど、そうやって群衆でどっか行ったりしたって、なんか面白くなかったんだ。けれども惰性でだらだらと付き合ってしまっていたんだ。今、こうしてバイブルスタディに打ち込んでるけど、こうやって向上しようと努力している現在の方が楽しいし、面白いんだ。こうして過ごしていると、自分は今までなんであんな風に時間を無駄に使っていたんだろうって後悔することもあるんだ。だから一年生のうちからこうして御言葉を聞きに来ている君がうらやましいよ。」

 このような話を聞いて、摂理にかかわる人は、遊んでいることにむなしさを感じ、それでいて、何かに打ち込んだりして向上しようとすることに一つの安らかさを見出すような人、そんな人が多いのかなあと思いました。僕自身もどちらかというとそういうタイプの人間でもあるので、それだけに一般化して語るのは偏見かなとも思うことですが、どうも現代社会にはそういう人が多いのではないかと思ったりもしました。何となく周りに合わせて遊びに専念したりしてみるけれど、そうして集団の型に自分を押し込めて空虚なものに時間を浪費することに言語化しにくい圧迫感を感じたりする。これは一種の現代病なのかなとも思いました。そして、それを解決する手段として、宗教のもつ自己啓発機能があるのかなと、当時は考えていたりもしました。

 そうして適当な話をしつつ、別れました。このあと彼と会うことはなかったです。その後、摂理の信者になるまで入り浸って染め上げられてしまったのか、もしくは僕のように決裂したのか、定かではありません。

 

 

ーーーあとがきーーー

・春日はこんなことを言っていますが、真面目に勉強をしたり、知識や技術力など様々なことを身に着けようと必死に努力する電通大生はたくさんいます。なので、周りがバカばっかりなのは、彼がバカなので、同類が集まっているからなのでは、と揶揄したくなる気持ちもあります。ですが、だからこそ何かに打ち込もうとする心意気は褒めてやりたいという気もしてきます。ただ、それで選んだ努力の対象が、強姦による逮捕者をだすような、異端カルトなどともいわれる摂理での宗教活動なのかと思うと、少しだけ哀れな気分もしてきます。

・摂理の信者には、基本的に真面目な気質の人が多いです。最初は遊んでばっかりでも、心のどこかで空虚さを感じるような人というのも多かった印象があります。今後のバイブルスタディで示されていくのですが、摂理では飲酒・恋愛が厳禁なので、それも相まって真面目な人が多くなるのだと思われます。

・彼のほかにも、僕と同時期に数人ほど、御言葉を聞きに来ている電通大生がいたようです。(春日が教えてくれました)聞きに来ている人の御言葉の進捗状況を教えてきて「君よりも、他の人はこんなに頑張っているよ」などと言われ、競争意識をあおられることもありました。つくづく摂理は非常によくできた教育(洗脳)システムを持っているなと感じます。

交流7 彼らによって、悩みが解けたような話。

 摂理の信者と関わっていると、いろいろな人(特に自分と親しいと思われているような人)によく「悩んでいることとかないの?」などと聞かれます。そのようなことを聞かれるたびに、僕は「女性関係で悩んでます」などとぼやいていたような気がします。(当時はよく修羅場になったり、両脇を警察に固められてパトカーにぶち込まれたりしていました。要するに荒れていたんです…)恐らくそれを聞いて何やら画策していたのだと推測されますが、それについてのお話?のようなものをされたのだろうと思われる出来事がありました。今回はそんなお話です。

 春休みに入ってからは大体毎日、彼らのところへ行き、御言葉を聞いていました。そうする中で、キリスト教式の文化、生活、行動規範などといったものはどのようなものなのかについて興味を持ち始め、それらについて調べたり、時には彼らとは独立してそのようなものを勉強したりしていました。

 そうして調べている中でも、また摂理の信者たち(このときはまだ、明確な宗教団体の連中などとは思っていませんでしたが)の生活や人となりを見ていたりする中においてでも気づいたことがあります。それは、キリスト教式の信仰生活の特徴は「身の回りのありとあらゆる出来事を、すべて神様に”こじつける”」ことなのかなということです。そのような思考形式は、何かの役に立つのかな?と考えていたりもしていました。

 それに感づいたころのことです。(LINEを確認したところ、3月中旬ごろのことでした)いつもは彼らのマンションに行くのですが、今回は熊沢(仮名)が後に用事があるからとのことで、調布駅前のシャノワールで御言葉を聞くことになりました。

 そうして、シャノワールの適当な席に、前に熊沢、横に春日(仮名)という配置で座りました。

 熊沢曰く「今回の御言葉はいつものとは少し違うものになるんだ。僕がこの前教会に行ってきたとき”今の君には絶対に必要な話”だと感じたものを聞いたんだ。今日はそれを伝えようと思うよ。」

 とのことでした。話の内容は次のようなものだったかと思います。

 「”愛とは関心である”というお話を聞いたんだ。愛情の反対は無関心と言うくらいだから、無関心の反対と考えると、割と自然に聞こえるね。だから、何か愛の対象があって、それのせいで苦しみが生じるようなことがあったりすると思うんだけど、それは元々をたどれば”関心”があるから生じるんだよ。もし、君がそれに近いことで悩んでいることがあるとするのなら、それから抜け出すためには、関心を持たなければいい。神様がおっしゃった真理の一つ一つが納められた聖書には、そのように書いてあるんだ。」

 それを聞いて、僕は感動していたかと思います。なるほど確かにその通りだ!そうか、そのためにひどい目に遭い続けていたのか。じゃあ、関心を持たないようにすればいい。なにせ世界の真理が納められている聖書にはそのように書かれているのだから!そんな風なことを頭の中で繰り返していたかと思います。

 その感動とあいまって、先述した「身の回りのありとあらゆる出来事を、すべて神様に”こじつける”」思考形式のことを思い出しました。これらを踏まえて、話が終わった後に、このように返事をしていたと思います。

 「とても面白い話でした。確かに、今の僕には、その話がとても必要だったように思います。そういえば今日、僕は遅刻しそうだったのですが、ここに来るまでの電車は、全部特急電車だったんです。”これも、きっと神様がこの話を僕に聞かしてくださるために、このように導いてくださったのかもしれません”」

 そんな話をした後、熊沢や春日はとても喜んでいたのを覚えています。「そうだよ!神様はそのようにしてくださったんだよ!よく気づくことができたね!ここまで神様のことを分かってくれるような人間は全然いないんだよ!君は気づくのが速い!!凄いよ!」みたいなことを言っていたと思います。

 そうしていたら、熊沢は出かける時間になっていたので、一足先に出ていきました。そのあと、しばらく、僕と春日は「神様ってすげえな!!」みたいな話をして盛り上がっていたと思います。

(続きます)

ーーーあとがきーーー

・「身の回りのありとあらゆる出来事を、すべて神様に”こじつける”」キリスト教徒式思考様式は何かの役に立つのかなと、結構長く考えていました。そして「他の誰かには役に立つのかもしれないけれど、少なくとも自分には必要ない」という結論を出したのですが、それを思いついたのは摂理の連中と決裂してからだいぶ後になってからだったと思います。宗教は脱退しても、精神状態にはかなり長く影響するものだと考えられます。

・聖書によって悩みが解けるという経験を与えると、結構入れ込むようになります(実体験済み!)なので、彼らは僕から適当な悩みを引き出して、それに対してどのような聖書由来の話をすることによって解決させるか、話し合っていたものと思われます。でなければここまで集団で手厚くサポートできないと思われるからです。摂理にはこのような、悩みに対する想定問答集でもあるのでしょうか。

・結局、彼らからこのような話を聞かされたけれども、お悩み解決に至ったかと言われるとそうではなかったです。この後も修羅場になることが多々ありました…

・「愛の反対は、憎しみではなく無関心」というようなことを言ったのはマザー・テレサのようです。(当然ですが彼女はカトリックであって摂理の信徒ではない!!)今回の話はそのアレンジver.といったところでしょうか。

 

交流6 聖書の勉強「バイブル・スタディ」をやり始めた話。(後編)

 交流5の続きです。移動した部屋は四畳半強程度のこじんまりとした部屋で、机、椅子、そして、以前の食事会で春日(仮名)がレクリエーションで使っていたでかいホワイトボードがありました。(交流2より)そして机の上には教師役用の、朱筆で膨大な書き込みの入った聖書と、生徒用の何も書いていない聖書がありました。どちらも口語訳のもので、なかなかに使い古されていました。

 そこに、熊沢(仮名)と僕とが入り、向かい合うように椅子に座り、そうして講義が始まりました。彼はパソコンを開き、適宜僕の様子を伺いつつ、適度に問いかけをしながら、ホワイトボードを用いて講義を進めていきました。(教員志望というだけあって、彼の教え方は、今までに関わってきた学生の摂理の信者の中で一番上手でした。彼は良い教師になれると今でも思います。宗教勧誘してくると思うけど…)

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当時僕がとっていた「バイブル・スタディ」のノートです。名前が書いてあるので隠してあります。

 講義の冒頭で、まず旧約聖書新約聖書の「旧約」「新約」とは何かについて教えられました。曰く”約”とは人間と神様との間で交わされた「救い主(メシア、キリスト)」を送るよ!という約束のことを指しているとのことです。よって「旧約」とは神様との古い約束で、救い主イエスを送るよ!ということを意味し、「新約」とは神様との新しい約束で再び救い主を送るということを意味しているようです。(新しいキリストとは、いったい誰のことでしょうかね??)

 そして、聖書には、正しく読まなければならない、と言われます。なぜなら、

「1:20聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。」(ペテロ第二の手紙)

と書いてあるからと言っていました。

そして、聖書は

「13:34イエスはこれらのことをすべて、譬(たとえ)で群衆に語られた。譬によらないでは何事も彼らに語られなかった。」(マタイによる福音書

より、譬、つまり「比喩で書かれている」から、その比喩を解かなくてはならない、その比喩を解いて読む方法ことこそが、正しい聖書の読み方だ。と言っていました。そして、比喩が何に対応しているかは聖書に書かれているので、それを探し出して読む必要がある、とのことでした。

 その比喩で読むやりかたの具体例を一つ示します。

「17:27しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」(マタイによる福音書

ここで示される”魚”とは、

「1:14あなたは人を海の魚のようにし、」(ハバクク書)

より、魚とは”人”を示しているんだ!と言われるわけです。

 このようにして、各種名詞に対応する名詞を聖書の中から探し出し、解釈するやりかたを見せられます。これの繰り返しによって講義は進められていきます。

 こうして、聖書とは合理的に解けるのであって、世間一般で話されるようなおとぎ話めいた話をそのまま解釈するのは違った読み方であり、我々のやっている読み方こそが唯一の正しいやり方である!と示されていきます。

 そうして、講義の合間合間に「この話を最初に伝えてくださった素晴らしい牧師先生」なる人物の逸話を聞かされます。曰く、学校にいけないほど貧しかったから、学校の勉強の代わりに聖書を2000回読んで、やっと、聖書の比喩を解くような、正しい読み方を発見した、悟ったなどといった話をされます。

 このときの話は「ペテロと魚」という話でした。そこから、先述したような解釈方法によって、教訓を見出していきます。

 この話で導き出された教訓とは

「キリストにあったら(もう二度とこないような人生のチャンスに出会ったらとも言われますが)何をすればよいか?」といったものでした。そのときペテロ(キリストの一番弟子)は

1:普段から善い行いをした

2:固定観念をもたなかった

3:大事なものを捨てた

から、成功したのだ!と言われました。(ルカによる福音書5章より)だから、我々もそれに倣って過ごせば良い!!ということのようです。

 このような講義を受けて、今回は終了しました。そうして、今日の御言葉の感想を言いあったり、「次回はいつ御言葉を聞く??」といって予定調整をしたりしたのち、それぞれ帰宅しました。1年生のときの春休みは、信者の連中によるこんな講義を毎日聞きに行っていました。

(続きます)

ーーーあとがきーーー

・当然ですが「聖書は比喩で書かれている」などとは、一般的なカトリックプロテスタントは言いません。魚はあくまでも魚です。ただ、元々キリスト教徒ですという人でもなければ、かなり緻密で一見合理的に論を進めているので、正しいだろうと思いこまされてしまうと考えられます(僕がそうでした!)

・ちゃんとした研究では、摂理のバイブル・スタディ(三十講論といういいかたがあるようです)は「脈絡のないバラバラの聖書解釈を編纂したものでしかない」(櫻井 2007)ようです。当たり前ですね。

・実は「聖書は比喩で書かれている」と言い始めたのは、摂理ではなく、統一教会と呼ばれる韓国発のキリスト教系異端カルトだったりします。(献金勧誘問題などで有罪判決を受けていたりします)教祖チョンミョンソクは自身が摂理を作る前にここに3年ほどいたようです。つまり教義をパクっていたわけですね。これで唯一無二の絶対の教えなどとよく言えたものです。

・この摂理式の教え方、すなわち「事前にお互いのことをよく知る機会をつくり、そのうえで一対一の状況で、適宜反応をみながら講義を進めていく」手法はとても高い学習効果があります。「ある面で評価尺度(GDP)や履修法(コア・カリキュラム)の厳密化や、FD(Faculty Development 教育方法の開発)による教育技量の向上を図っている大学が太刀打ちできないほど、摂理は「教え込み」の要をよく心得ている。」(櫻井 2007)という評価もあるくらいです。そしてこの高い教育効果は、学校の落ちこぼれを信者として取り込む効果も生んでいたりするのですが…

・ここの段階ではまだ実感がわきませんが、後々になって、段々とこの方法によって、”素晴らしい牧師先生”がキリストであることを示されていきます。そして、このときの話で出てきた

1:普段から善い行いをした

2:固定観念をもたなかった

3:大事なものを捨てた

とは、

1:お祈りをや御言葉を聞き、宗教活動をすること

2:他の考えを受け入れないこと(聖書の比喩を解かないで読むことは固定観念ですからね)

3:自分の今やっていることよりも、宗教活動を優先しなければならない

ということを示していたんだ!と気づくように仕向けられていたりします。とんだ伏線ですね。

 

<参考文献>

・櫻井 義秀 キャンパス内のカルト問題ー学生はなぜ「摂理」に入るのか?-高等教育ジャーナルー高等教育と生涯学習ー15(2007)

交流5 聖書の勉強「バイブル・スタディ」をやり始めた話。(前編)

 時期は春休みに入り始めたころでしょうか。彼らのマンションに行き、聖書の勉強の勉強をしようという話になりました。彼らはそれを「バイブル・スタディ」もしくは「御言葉を聞く」などと表現していました。彼らの話では、どうも他大学の大学院生が来て、無償でおこなってくれるらしく、日程調整なども彼らが行ってくれていました。(思えば非常にスムーズに進行していた!!)そうしていってみると、初対面の若い男がいました。

 彼は都内の(電通大ではない!)国立大学の大学院生で、主に数学の教育学を専攻しているとのことでした。見た目は日焼けしていて浅黒く、髪の毛を短くしており、筋肉質でいかにもスポーツやってます!といった感じの方でした。そしてその見た目通り、野球をやっていたようです。彼にはよく「御言葉を伝えて」もらっていました。(多分一番教えてもらっていたと思います)名前は熊沢(仮名)と言いました。

 来て早々、さあ授業を始めるかというと、そんなことはありませんでした。その人と僕、あと春日(仮名)やそのほかの信者と一緒に、自己紹介をしつつ、まず事前に世間話をし始めました。彼らの話では、まず事前に関係ない話をして、お互いをよく知ってからバイブルスタディをすることで、より一層上手く伝えることができる、とのことでした。

 その世間話というのも少し気風の変わったもので、「どうして今の大学を選んだのか」「将来は何をしようと考えているのか」などといった、ちょっとその人の内面に突っ込んだような、彼らの言い回しでは「深い話」といったようなものでした。僕は熊沢に「いつ、このような聖書の勉強を始めたのですか?また、そのきっかけみたいなものは何ですか?」などと聞いてみました。熊沢は確かこのように答えていたと思います。

「自分は小さいころから野球をやっていて、それをずっとやり続けてもう10数年ほどにもなるんだ。自分の過ごしてきた人生の時間のうち殆どは野球をして過ごしてきたんだ。野球をやりながら、教師になろうとして勉強をして、良い大学に進学した。そうして大学に入って、ある程度自由な時間を得られたときも、特に疑問を持たずに大学の野球部に入って野球をやった。けれど、そうして野球をやっている中で、ふと疑問に思ったんだ。自分は、特にプロになろうと思ってまでここまで野球をやってきたわけじゃない。それなのに、とても長い時間、野球をして過ごしてきた。もし自分から”野球”というものを取っ払ったとき、その時自分には、何が残っているのだろう?

 何も残っていないだろう。じゃあ、自分は、そもそも何で生きてきたんだろう。そもそも、自分の人生の目的は何なのだろう。それは野球じゃなかった。長いことやってきた野球でさえ、その人生の目的というものにはならなかったのに、何が人生の目的となるのだろう。

 そんな悩みを抱えていたころに、同じく野球をやっていた友達にこのような悩みを打ち明けたんだ。そうしたらその友達は”君の悩みに応えられるものは、僕は「聖書」しかないと思う。僕と一緒に勉強してみないか?”と答えてくれたんだ。それがきっかけになって、今の君みたいに、聖書の勉強を始めたんだ。

 聖書は、そもそも「私はなぜ生きているのだろう」「何をしてはいけないのか、何をするのが良いのか」といった、現代の教育では見過ごされがちだけど、人間には欠かせない大事なものを取り扱っているんだ。そして、いまでも勉強中だけど、少しだけ教えることもできるようになったんだ。僕がかつて持っていたような、こんな悩みをもつ人の手助けをするために、今はこうして御言葉を教えていたりするんだよ」

 そのような話を30分強していたかと思います。そして、別室に移って、熊沢と一対一で、バイブル・スタディを始めることになりました。

(切りが良いので2分割します。続きます)

 

ーーーあとがきーーー

・熊沢に限らず、他の大学院生にも教えてもらう機会があったのですが、そのたびに、事前に先述したような世間話をしていました。そのおかげで、僕は一種の「コミュニケーションの技術」を培うことができたと思っています。(これは摂理に入信するメリットなのでは?と今でも思っています!)

・この事前の世間話で、僕はよく「いつぐらいから御言葉に出会いました?」(翻訳:いつ摂理からの勧誘を受け、バイブルスタディをすることになりました?また、なぜ聖書の勉強などというものをしようと思ったのですか?)と教師役の人たちに聞いていました。教師役の人たちは皆「大学に入ったのはいいけれど、自分の人生の目的、将来の方向性が分からなくて悩んでいたところ、運動部や友達から聖書を進められて、そして勉強し始めて、今に至った」みたいなことを言っていました。こういった悩みを持つ人が宗教にはまるのかなと考えられますね。

 

 

交流4 「牧師」を名乗る男に会わされた話。

 時期は2月の中旬でまだテストが終わっていなかったころだと思います。(電通大のテスト期間は終わるのが遅い!)春日(仮名)からこのようなLINEが届きました。実際のLINEです。

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 そうして、会う約束をしました。最初は電通大の生協前で一回春日と合流して、それから調布駅前にあるシャノワールという喫茶店に向かいました。(摂理の人間とは、今後ここに集まったりすることが多々ありました)

 そこから向かう途中、今日会うひとについて、春日はやたらとほめたたえていました。

「いやあ、あの人はすごいんだよ!木村(仮名)さんっていうんだけどね。もうほんとマジですごいから!あったら絶対感動するぞ!」

みたいな感じのことを言っていたかと思います。

 そうして来てみると、入り口近くのテーブルに、その男はいました。全身を上等なスーツに身を包み、良い時計をし、身だしなみもとても綺麗に整えられていた、高身長で筋肉質な、いかにもエリートサラリーマンといった感じの男でした。

 その木村が向かい側の席、隣に春日という配置で席に着き、互いに自己紹介をしました。その木村という男は、以前はサラリーマンをやっていたが、今は脱サラして、奥さんの法律事務の手伝いをしつつ、「牧師」をやって過ごしている、と言っていました。宗派を聞いてみたら

「どこの宗派に属しているというわけじゃないんだけど、強いて言うなら”超教派”だよ」

と答えていました。(自分たちが摂理という団体の人間であることは、一言も喋っていませんでした!!)

 当時の僕は、まあそんなところもあるのだろうと考え、なんともまあ凄い経歴だなあと感じていました。そうして、彼と簡単なスモールトークをしていたら、どこかで、以前の食事会でもあったような、僕のパーソナリティなどを掘り下げていく展開の話になっていたかと思います。

 そこで僕は、物理をやるために大学に来たこと、やりたい研究の方向もある程度明確で「これをやるために生まれてきたと言っても過言ではない」といった強気な発言をしていた記憶があります。そうして、僕という人間の情報をよく聞いてから、話し手が木村のほうに切り替わりました。話の内容は、恐らく次のようなものだったと思います。(名詞などは間違えているかもしれません)

「世界の”四大賢人”という言うものを知っているかい。一人は孔子、一人は、ソクラテス、そしてもう一人はブッダだ。彼らは、それぞれある”真理”を述べていたんだ。知っているかな?」

孔子のくだりは忘れてしまいましたが、恐らくは”怪力乱神を語らず”の話だったかなと推測されます)

 僕は、ソクラテス無知の知*1ブッダは無を悟ること、などと答えていたと思います。それを受けて木村はこう答えていたかと思います。

「そう、その通り。彼らは、それぞれの道を究めた、大天才だったんだ。そうして、彼らは一つの真理に辿り着いたんだ。彼らの答えのをまとめてみると、何になると思う?それは”無”だ。人は人の枠組みの中で任意のことを究めると、必ず”無”に辿り着くんだ。ただ、賢人たちの中で、唯一”無”に辿り着かなかった賢人がいたんだ。誰だと思う?」

 僕は分からなかったので、素直に分からないと言いました。そうしたら次のように帰ってきたかと思います。

「それはイエス・キリストなんだ。他の人たちと比べると、少し変だな?って感じるかもしれないが、事実、世界中の著名人の多くは彼を一番の偉人、賢人であると言っていたりするんだ。それは、彼の発見した真理こそが理由だったわけなんだ。そしてそれは何だと思う?

 それは”神”だったんだ。言ってしまえば、人が人という枠組みの中でどれだけ究めようとしても、帰着するのは”無”になってしまうんだ。しかし、彼は違った。”神”という、人を超えたものを考えることで、人の枠組みでしかできないこと以上のことをやってのけたんだ。事実として、キリスト教は世界中に広がり、そして今なお信じられており、かつ信仰を持たない人にでさえも影響を与え続けている。神という、人より上位の存在に ”引き上げられることで” 彼はこのような偉業を成すことができたといえるだろう。歴史上の偉人たちの中に、信仰を持っていた人が多いというのも事実としてあるが、それはこのような理由によるものじゃないかな。

 そして、”神”というものについて全てまとめ上げられた、世界で一番発行され、読まれている書物があるのを知っているね。それは聖書だ。聖書に書かれた言葉の一つ一つのことを、”御言葉(みことば)”というんだ。御言葉を学び、信仰を実践していけば、歴史に名を遺した多くの人々のように、人の枠組みを超えた、偉業を成すことができるのだとおもうよ。

 君は、話を聞くに、生きていて何か迷いがあるとかそういうわけではなく、ちゃんとした目的を持つ人みたいだね。しかし、その目的を成すための強力な手段、人のもつ成約を超越して何かを成し遂げることを可能にするものとして、御言葉を学んでみるのも、いいんじゃないかな。」

 このような大演説を聞かされていたのを覚えています。彼の話は実に面白く、人を揺り動かす強いエネルギーがありました。それに非常に精神をたぶらかされていた実感が強くありました。ただ、それと同時に、考えていたこともありました。

 彼らは口には出していないけど、宗教の人間だろう。横に座っている春日もそうだろう。ただ、気になることもある。信仰を持つことが、果たして物理をするのに役に立つのだろうか?事実として、ニュートン神学者としての側面があったし、コペルニクスは司祭だったし、ガリレオは敬虔なカトリックだった。聖書を学べば、彼らのようになれるのだろうか?

 まあ怪しい連中だけど、ここで引き下がるのは面白くないだろうし、せっかくだから首を突っ込んでみてやろう。何か面白いことでもあれば、それは願ったりかなったりだろう。そんな風に考えていたかと思います。

 そうしていたら、そろそろお開きにしよう的な雰囲気になり、それを悟ったのか、木村の方は明るく別れの言葉を述べながら、伝票を持って去っていきました。(粋ですね!)なかなかの大演説だったので、僕と春日は隣同士に座ったままになりながら、しばらく脱力していました。そうしていたら春日の方から

「いや、こんな風に座ってたらなんか変な感じがするな」

などといって僕に座りなおすように促してきました。(そっちの気のある人なのかな?と当時は思っていましたが!)そうして座りなおしてから、木村のことについて話していたと思います。そしてそのあと

 「聖書ってすごいっしょ!勉強してみない???僕も勉強してるんだけどさ!」

みたいなお話を振ってきたかと思います。ここは木村のアジ演説を聞いた後ということもあって二つ返事で了承したかなと思います。そうしたら

「来週の金曜にうちに来てよ!」

みたいなことを言われ、行くと約束した後、お互いそれぞれの帰路に就きました。

 それから春休みに入り、聖書の勉強(彼らは「バイブル・スタディー」と呼んでいました)が始まりました。そしてそれは、摂理を摂理たらしめる洗練された洗脳の過程でもあったわけなのですが…

(続きます)

<補足>

 木村の話の中には、ここではどのような流れで言っていたかは覚えていないけれど、話の内容だけはおぼえているものがあるので紹介します。

 「僕が大学生のころ、ネパールに行ったことがあるんだ。ネパールなんて、日本と比べたら圧倒的に後進国なわけだ。そういうわけで、僕の中でも、表には出さないけど、そうした一種の差別意識、特権意識的なものはあったわけなんだ。けれど、そうもいってられなくなった出来事があったんだ。ネパールで、あるお婆さんに出会ったんだ。この人がとてもいい人で、当時の僕みたいな下衆なことを思っているような人間にさえも非常によくしてくれたんだ。しかもそれだけじゃなくて、僕が泊まる予定だった山小屋があったんだけど、そこが今夜襲撃されるから、やめておきなさいと忠告してくれたりもしたんだ。もうこのお婆さんは僕にとって命の恩人に等しくなったわけなんだ。こんな僕にさえ優しくしてくれる。けれども、なぜ優しくしてくれるんだろう??そこで聞いてみたんだ、どうしてこんなに良くしてくださるんですか?って。そうしたら”神様を信じているから”と言われたんだ。世界中のどんな場所、どんな時でも、神様はみていてくださるから、悪いことはできないし、また良いことをしたらそれを必ず見ていてくださって、その報いを必ず返してくださるからだって、そんな風に言われたんだ。このとき、僕は、日本なんて見かけは先進国で、ネパールは後進国だけど、信仰の根付いてるネパールの方が、圧倒的に上の国じゃないか、そう思ったんだ。それから日本に帰って、いろいろな宗教を巡って、学んでみて、その中でキリスト教が一番いいと思って、働きながら牧師をやり始めて今に至ったんだ」

 みたいな話です。彼の生い立ちみたいなものですね。それからもう一つあった話でこういうのもありました。

「”真理は人を自由にする”っていう、聖書に由来する言葉を教えてあげよう。真理というものは、人を縛ったりするものではなくて、むしろより豊かにしてくれるよ!っていう意味合いを持つんだ。例えば、モーセ十戒に示されたルールってものがある。これには

・盗むな

・殺すな

・姦淫するな

そのようなことが示されているんだ。盗んではいけない、殺してはいけない、姦淫してはいけない。このようなルールを課すことは、一見すると、人を束縛するものかもしれない。しかし、こういうルールを課した人間社会は、そうではない社会、隙さえあれば盗まれる、殺される、姦淫される、そんなのが蔓延る社会よりもより強い社会になったんだ。これは歴史にもあることで、そういった社会こそが生き残ってきたわけなんだよ。

 もう一つ、具体例を示してあげよう。ネパールでは、日本で言う道路交通法が無かったんだよね。そのため交通ルールや信号機なんかは何もない。だから車が交差点でかちあったりしたら、お互いがクラクションをぶんぶん鳴らして、無理やり通ろうとする羽目になるから、しょっちゅう渋滞が起きる。本来なら3分もあれば通り抜けられるような道でさえ、なん十分とかかってしまうわけなんだ。だけれど、道路交通法があって、交通ルールを作って、それを皆が守れば、そんな渋滞なんて起きなくなるし、そのおかげで、渋滞が起きて浪費する時間のぶん、自由な時間が生まれるというわけなんだ。”真理は人を自由にする”ということの意味はこんなところだよ。」

 最後にもう一つ、こういう話もされました。

「”真理は人を自由にする”、この話を最初に伝えてくださった”牧師先生”がいるんだけどね。この先生は、ベトナム戦争に従軍していたんだ。だけれど、キリスト教の教えを守り、実践するために、そこでは人ひとりも殺さなかったんだ。それどころか、そういった極限状況だからこそ、救いを求める人がいると信じて、戦争のさなかでも、敵味方関係なく伝道しておられたんだよ。」

 (そういえば、木村が帰ったあと、春日のやつが、やたらと「この”牧師先生”すごくない???」って言っていました。)

ーーーあとがきーーー

 ・摂理の人間と接していると、とにかくこの”牧師先生”とやらの伝説を聞かされます。この牧師先生というのが摂理の教祖であるチョンミョンソクという韓国人だったりします。(名前は絶対に教えてくれませんでしたが…)

・摂理では、何か大切な話をするときは「隣に比較的仲のよさそうな信者を置き、真向かいに他の人を置く」という形式をとることがかなり沢山ありました。実際そうすることで警戒心を減らし、緊張を解くなどの効果はあったように思います。なかなか巧妙なことをしますね。

・春日はゲイではないだろうと思われます。後々に述べることになるだろうと思いますが、そもそもキリスト教系の宗教は認めない雰囲気が結構強いようだからです。

・一緒に観劇しに行った後、そう間を置かずに、僕に木村を会わせようとしたのは、「こいつはそろそろ馴染んできて警戒心が薄れてきたころだろうから、バイブル・スタディを切り出しても大丈夫だろう」などと思われていたからではないかと推測されます。ただ、摂理の信者と知り合っても3年以上間をおいても切り出さないケースもあったようです。*2 、この辺りの丁寧・巧妙に勧誘を進めていくのは彼らの特徴でもあります。

・物理学者は信仰を持っていた人も多いのですが、大っぴらに無神論を振りかざしていた大物理学者リチャード・P・ファインマン博士なんかもいたりするので、結局信仰と物理なんてそんな関係ないだろうと思われます。

 

*1:哲学の世界では、”無知の知”ということは間違いであり、正確には”不知の自覚”というようです。「無」とは明確に違うものであると思われますが…

*2:櫻井 義秀 キャンパス内のカルト問題ー学生はなぜ「摂理」に入るのか?- p133 高等教育ジャーナルー高等教育と生涯学習ー15(2007)